雪に沈む白





 地上は何処までも凱々と。深空は青味を帯び星月は冴え。
 陰寒の気混じり川の水すらも凍る冬。連日降り続く雪が都を沈める夜更け。

「平和だな。」
 竜川玲宝の悠揚とした独白。何時の間にか薙刀を左手に持ち替え、開いた右腕は傍らの竜川真珠の肩口へと伸ばされた。途端、容赦なくも小気味良い平手打ちがその掌へと炸裂する。
「我等が何の為にこうして市中を見回っているのか兄者が忘れたのならば仕方が無い。思い出させてやろう。」
 その為には頭部に衝撃を与えるのが一番と言わんばかり。拳を振り上げる仕草に慌てた風に数歩、離れる。手の甲を撫で擦りながら、都が落ち着いて来ているって側面はあるだろう、と反論。
「そうでもなければ、たかだが盗賊の騒ぎに俺達まで巻き込まれないさ。」
 玲宝の言葉通り、この所都を騒がせているのは鬼よりも人間。夜盗である。
 屋敷を血で染める事を聊かも躊躇せず、確実に目ぼしい宝を奪い取っていく。残虐にして鮮やかな手口。思いつくままに論っても、被害を受けたのは染殿、高倉殿、桜町邸、高陽院・・・等々。都の政治を支えるお歴々の屋敷ばかり。
 結果―――今上直々に、朱点童子討伐隊の面々が都を警備せよと命じられたのだ。討伐隊筆頭の竜川家もそれに従い、二人、或いは三人で組となりこうして冬の都を警戒しているのである。

 うっかりと街中を歩けば善男善女も人の道に外れた者も。委細構わず鬼共に命を奪われかねなかった時代は、確かに存在した。圧倒的に足りない人手。結果として盗人も人殺しも放置せざるを得ず、荒れ放題だった嘗ての京。その時代を生きた者達にとっては、こうして一人だか複数だかの不心得者の為に仮初でも協力体制が敷かれる事など考えられなかったに違いない。

 竜川の家と同様に。都の誰も彼も。自分自身を生きる為に精一杯だった過去から脱却しようとしている。暗い影を捨て、悲しい記憶を置き去りに。何時かは何事も無かったかのように。
 そうして――――全てが元通りになっていくのだ。


 雪が全ての音を吸い取ってしまったかのような深閑の夜。長く、規則正しく続いた二組の足跡が乱れたのは二条大路の堀河院に差し掛かかった時だ。
 或いは今宵は何も起こらないのかと安堵の感情を交差させた二人を嘲笑う緊迫の声。
 屋敷周辺を、幾つもの松明の炎が空を朱金色に染めている。外回りの者も異変を察し中に駆け込んだのか、門扉が開け放たれていた。幸いと中へと駆け込むと、幾らも行かない内に人だかりにぶつかる。屋敷の使用人に混じって選考試合で見知った者達と目が合った。
 堅実な戦いぶりで常に上位に食い込む強者に守られた主は自然勢い付き、興奮で擦れた甲高い声で闖入者に問い掛ける。
「御主、何者だ。」
 佇むのは―――たった一人。
 色の抜け落ちた髪は篝火に照らされても尚白い。雪に映える切れ長の目は左右で微妙に濃淡が違う冬の空の色。一体多数の圧倒的不利にも拘らず、聊かも揺るがない整った面立ちは、そこらの貴族どころか物語の中に描かれる貴公子すら足元にも及ばない。
 美貌を見慣れた竜川一族でも息を呑む、現実離れした美男子は問い掛けに毛筋の先程も反応せず、小さく眉を潜めた。焦りを露にする主と塀を背に堂々と立つ謎の男。これではどちらが侵入者か分からない
――――この感覚。太陰・・・桂?ふむ。」
「何者だ!?」
 再度の詰問に、煩いと言わんばかりに男を睨め付け、無造作に足を動かす。さあ、と広がる雪煙が視界を奪った。再び静寂が戻る、その時間は刹那。
 血飛沫が、白の大地を金朱に染め。壊れた木偶のように。男が降りかかった災厄を理解出来ないと、不可思議な表情を顔に貼り付けたまま、倒れた。
「・・・・。」
 人の命果てる。その音すら凍り、滑り落ちる一際冷たい朔風。息が詰まる程に染み付いた血の臭い。夜盗風情が身に纏える類の雰囲気ではない。誰もが圧倒される中、鈍色をした視線が位置的には後方に居る竜川の二人へと向けられた。其処が大元、と瞳がつい、と細められる。唇がにいい、と歪んだ。
「人外が堂々と都に混じり居るとは。」
 明け透けな物言い。無遠慮な視線。暗黙の了解を平然と踏み越える態度。
 心の何処かにある本音。見て見ぬ振りをする暗部を鋭い刃で貫かれ、動揺する周囲の面々を他所、玲宝が前に出る。
「大概人の事は言えないんじゃないか?何者だ、一体。」
 白い髪がさらりと流れる。成程。首肯と納得の言葉。
「藤原保輔。」
「念の為聞いておく・・・都を荒らし回っているのは、アンタか。」
 名前のみ告げた男に対する、問い掛けと言うよりも、確信である。
 自分達の存在を知らぬ様子である事を鑑みると余所者なのだろうが――――慄然が具現化したような存在が今まで埋もれていた方がいっそ意外だ。
「その通り。」
 体を沈め、一足に。肯定の言葉が夜気に霧散するよりも速く。飛び込んできた男の手に握られている、大振りの扇。しかしそれは日用品とも、踊り屋が使用する呪力を内包したものとも一線を画する。無骨にして流麗な銀光の塊。手妻を見せ付けているかのように、雪明りに怪しく輝く。
 見慣れぬ武器に対する戸惑い。それでも咄嗟の動作で打ち落としに構えた薙刀が金属が放つ火花と共に下方へと押し込まれ、脇腹に火が走ったような痛みが走る。
 鉄扇。始めて相対する武器。だが回復は勿論、逡巡の時間も無い。懐に飛び込まれてしまえば長刀は圧倒的に不利なのだ。変化した刃の動きにあえて逆らわず、地面に叩き付けられた反動を逆に利用し、薙刀を上段へと跳ね上げる。浅い。斬れたのは白鼠色の衣のみ。一方致命傷ではないものの、玲宝の装束には早くも血が滲み始めた。
 流石は都を騒がせる凶賊。生半な相手ではない。
 一方総金属の扇という独特の暗器に対しての石火の応酬に、保輔がふ、と感心した風に避けた袖口を翻す。
「無駄に混在している訳ではないのだな。」
「さっきから・・・!こっちには竜川玲宝と言う名前が――――あるんだよ!」
 距離を取り、水月に構え直した薙刀を裂帛の気合と共に繰り出す。右から左への横殴りの攻撃を避ける様に、男が左に飛ぶ。その為に足を動かす。その僅かな間合いを過たず捉え、玲宝は全身に停止の力を込めた。筋肉が体の中で悲鳴を上げ、新旧の傷が痛みを訴える。
「・・・・っの!」
 薙刀の勢いを無理矢理止めると、体を反転させる。更に鋭く、早く。初太刀とは正反対の左から右――――。挟撃へと軌道が変化した刃を流石にかわす事は出来ず、保輔は閉じた鉄扇で受け止めた。金属同士が擦れ合い、軋む音。懇親の一撃。薙刀の勢いは収まらす、雪と泥が交じり合う。
 ――――獲った!
 しかし、確信は唐突に薄れた抵抗に覆された。
「竜川とやら。君に一つ質問がある。」
 端から連撃を予測していたとでも言うように、楽しげに咽喉を鳴らした。刃を受け止めつつ、その力を殺ぐ様に自ら後方へと飛び退さると築地に足を掛け、斜め上に身を翻す。薙刀の勢いを考慮しても尚、常人離れした瞬発力と脚力。
「“しゅの”。」
 上段から容赦なく振り下ろされる鉄扇。痛烈な一撃に絡み付く言葉。

 “しゅのくびわ”、とは、何だ。

「なっ・・・・。」
 呪の首輪とは禁忌を犯した神を罰する為の刑具。
 朱の首輪とは朱点童子が神を傀儡にする為の具物。

 しかし。何故。場違いに強かろうが、盗賊風情。如何して――――気にするのだ?

 手首の痛打以上の意外の問いかけに、得物を取り落とす玲宝の首筋に、鉄扇が突き付けられた。
「知っているのか、知らないのか。」
「知らないと言ったら如何するんだ?」
 その藁色頭が胴体と永遠に別れを告げる事になる。答えた所で同―――
 言葉が途切れ、首筋の刃が消えた。何故離れた―――と。視界を遮るのは最も身近で見知った白。
「っ・・・の馬鹿が!」

 確かに―――強い。真向かいで相対すれば抜き身の刃物の様な圧力だけで息が詰まりそうだ。それ以上に怒鳴る男の声が背中に痛い。
 それでも真珠は動かなかった。己に課した決意は、細い体を揺ぎ無く支えている。

 わたしがやらねばならない事だ。維持する為に。守る為に。失わぬ為に。

「・・・・不毛だな。」
 真珠の何かが男の癇に障ったのか、鋭利な笑みがするりと消えた。右目は更に色を失い、それとは対照的に、左目には深い闇の陰りが見え隠れする不機嫌顔。
「己の存在。その行為に意味を求めているのならば、見当違いも甚だしい過大評価だ。“私の敵”にすらなれない君が無駄に命を落としたとて。或いは華々しく死んだ所で。何処に何の影響を与えるというのかね?」
 馬鹿馬鹿しい。全くつまらない下らないと閉じた鉄扇で己が肩を叩く。手前勝手な上に露骨な隙。言葉で応酬する必要は無い。全てを貫く様に、柄を短く。房飾りごと握り締め、二の腕を沿え。体を反らし突きを放つ。
 間合いの広さという長所。斬撃を本分とする薙刀と言う武器の特性をあえて削いでの突撃。しかし保輔は不意打ちにも慌てる素振りは一切無い。その場から半足程度も位置を動かさず、それどころか雪原から足の裏を離す事すらなく。上半身の体重移動だけで繰り出す刃を避けた。
 紙一重にして余裕の態度で逆に半歩、前へ出る。撓らせた上体の勢いを利用した肘打ち。
「くっ・・・・。」
 引き寄せた柄で防ぐが、腕を伝わり肩へまでも響く重量は半端ではない。耐え切れず地面に着いた膝から雪の冷たさが伝わってくる。
 ――――と。不意に、風が動いた。
 頭上を掠め、鼻先で空を切り。保輔の一打により体が沈んだからこそ無傷で済んだ程の至近距離を通る矢が塀に穴を開け、雪を乱す。
 玲宝の絶叫と、蒼白な横顔。そんなに声を張り上げなくても聴こえる―――と何故か笑いたくなってやっと。討伐隊の何某が真珠と相対する事で始めて付け入る隙を見出した賊に矢を放ったのだと気付く。
 結果だけ見れば保輔の行為が真珠を助けたに等しくなる訳だが、無論当人には救命の気持ちなど微塵も無かった筈だ。恐らくは己を狙う飛び道具の存在を逸早く察知し、分かりやすく挑発する事で真珠や或いは玲宝を盾に自分は逃げる算段だったに違いない。
 その証拠に当人は板塀の上。両の足でしっかりと立ち、掠り傷一つ負っていない。
「二度と合間見える事は無いだろう、が――――。」
 舞手が挨拶をするかのような、芝居がかった仕草で優雅に腰を折る。ふわり、白い影が宙を舞う。
 冷風に乗り、奇妙に美しい低音だけが冬の空に響いた。

「生きているのならば。精々無駄に足掻くが良いよ――――お嬢さん?」


 申し訳ない。怪我は。流石は竜川の。

 退却は当人の気紛れと痛感しているのは相対した二人のみ。外側からは竜川玲宝、真珠の活躍で盗賊が逃げた―――と言えぬ事も無い。見当違いの謝罪や感嘆の声を一身に浴びながら、真珠は空を見上げた。
 祈りも願いも届かない。それでいて己の上に落ちてくるような低い、重みを感じる鈍色の空から一片。一片。はらはらと舞い散る雪。
 銀。灰青。卯の花色。桜色。
 光に照らされ、闇に飲み込まれ、様々な色に変化する無数の淡雪。

 悲しい様な、清々しい様な。それでも何故か口惜しいとは思えない。不可思議な感情を押し止め、心痛を実に分かりやすく露にしている玲宝にやっと。笑いかける事が出来た。

「雪は、白くないのだな――――。」