婿入狐 ― むこいりぎつね ―





「俺の、嫁にくれよ」

 日照雨の中から息せき切って当主部屋に駆け込み息も静まらぬうちに告げると、六道にそれこそ石の裏から這い出てきた蟲でも見るような目つきで睨み倒された。
 平素でさえ凄みある切れ長のまなざしは険を含むと大蛇もかくや、蛙どころか人のひとり、狐の一匹くらい容易くぺろりと呑んでしまいそうなと思わせる代物である。ぶわりと背の毛がひとりでに逆立ったが、下腹に力を込めて尾は巻かずにおく。三本もあると大変で、うっかり気を抜くとどれかひとつでも股下に挟んでしまいそうになるのだったが。
「……華厳≠ニ綿津見の符と雨切り弓で連弾弓、どれがいい? 好きなのを選ばせてやるぞ、次郎丸」
「選ばせてやるってそれ全部死に方じゃねェか! しかもそのどれも一遍ずつやったろ俺を解放するときに!」
 然様。
 鬼王の呪――朱ノ首輪に括られてあさましく血肉をむさぼる鬼と化した神は、少なくとも一度は受肉したその身体を捨てねばならぬ。今年――1025年三月弥生、鳥居千万宮大鳥居にて解放された土神・稲荷ノ狐次郎はその一戦を経、以来まあいろいろあって、いまは寿命つきるまでという契約でその手でかれを解放した冬見家七代当主に識神・次郎丸としてこき使われている身の上である。
「一歳七ヶ月の老境と思うて侮るでないぞ、次郎丸? 確かに漢方薬頼りのこの身体だが、最前の千影の初陣のときなぞ一度に五十も技水が上がってな。いやあ見せてやりたかったぞはっはっは」
 いっそ朗らかな笑声であった。その表情が木彫りの能面のようでさえなければ。
 稲荷ノ狐次郎、陰火をあやつる火性のわざに長けているがその反面水の性にはめっぽう弱く、生まれながらに水性の気の強いこの男と相対するには不利である。(実際、ぼっこぼこにやられた)
「待て待て待て落ち着け早まるな! 家の中で水術使うなんざ後の被害が甚大だろうが、なあオイ!」
「ふむ。一理ある」
 思い留まった。
 かに見えたのは一瞬だった。普段は眉間に寄せた皺と目つきの鋭さによって凶相に見えがちの面相ににこりと清麗な笑顔を浮かべ、「おやこんなところに弓と逆頬箙が。そういえば内裏にお伺いするときにはいつも持っていくのだったよ」
 冬見家七代当主・六道、周到さと安堵を与えてから叩き落す手腕には定評がある。もっぱら家の外の、鬼狩の血筋を敵視する輩に。
「なに避けるなとは言わんさ。なあ、俺もあれからそこそこ研鑽したと思うているのだが、ひとつ確かめてはくれまいか?」
 その身で。

 1025年十月神無月初旬。
 かくて襤褸を引き裂くが如き悲鳴が、冬見の屋敷に木霊した。

◇◇◇

 座り小便しなかっただけでも誉めてやりたいと思う。自分を。
「……次郎丸、お前なあ、俺が本気で当てると思ったわけか? 友達甲斐のない識神を持ったものだ」
 それを言うなら己の普段の行状を振り返って貰いたい。切実に。
 金縛りに遇った如くに動けない金毛三尾の狐の背後には障子。両耳と額の上すれすれをかすめていった三本の矢は御丁寧にも回収のしやすいようにきっちりと桟に突き刺さっているところが小憎らしい。
「本気で当てねェんなら射つなよ……うっかり心ノ臓が止まるとこだったぞ畜生……」
「いや何、わかっていてもやっぱりむかついたから腹いせで何となく。」
 本気だったらこんな楽な死に方させるものかよ。
 しれっと言ってのける辺りが大変恐ろしい。涙目の狐をよそに抜き取った矢をきちんと箙におさめた当主は、何もなかったかのように円座を取り出してすすめた。
「まあ座れ。そもそんななりをして、縁の内外でする話でもあるまいが」

◇◇◇

 円座のうえにちんまりと座った狐に御丁寧に茶と菓子まで出してから、
――で、嫁にくれというのはつまり、お前と九曜との交神の儀を取り計らえということでいいのだろう?」
 単刀直入にも程がある。狐次郎は落ち着かなげに尾をゆすった。「…ま、まあそうなる」
「今更照れるな。段取りを決めるのも俺の仕事だ、しかしまあそうなると今月の討伐を取り止めて、強化月間の申請を撤回するのがちと手間か」
「……べ、べつに今すぐとか頼んでねえぞ? こういう話があるから考えといてくれっつーか何つーか……」
「阿呆ぬかせ。今すぐだ。明日にでも儀式が出来るよう取り計らうわ。しかしそうしても七七の四十九日の……ち、矢張り間に合わんか。ぬかったな」
 何やら指を折って数えては舌打ちする六道に、狐次郎はついつい尋ねた。「間に合わねえって何がよ?」
「寿命だ。俺の。」
 懐手をして、さらりと言い放つ。「あ、おい。顔は見れんが子が出来たら男か女かは教えにこいよ。雛人形か鯉のぼりをあつらえるのだから――いやでも、その前に戦装束の準備か。ううむ何たる理不尽」
「お前は初孫を待つ爺か!? と、いうか、反対とかそういうの予期して腹をくくってきた俺の覚悟は!?」
「さっき存分に役に立ったろう、良かったな。たかが野狐に掌中の珠ともいうべきあの子は正直勿体無いとも思うのだが、なにせあの子は鳳、稲葉と続いた風性の血筋だろ? おぼろ殿では子の体力に不安が残るし、かと言って八坂殿にやるほど俺は人間が出来ておらぬでな。まあ妥当な線だろう、お前相手だとこうしてごり押しも出来るわけだし」
 二の句も継げぬ、とはこのことである。日頃の寡黙のたちを裏っ返して立て板を水で流すようにつらつら語り、少々喉が渇いたのか茶碗の中身をぐびりと呷って、ふうと息をつく。ごく少しの粥と薬湯と、この男がそれ以外を口にする姿はもう随分と見ていなかった。
「……祝いに、馳走くらいは出るんだろ? 俺ァ精進物なんざ喰わねェからな」
「そうさなあ。お前の好みなんぞ知らんがあの子の好物だし、豆腐づくしが良いかな。酒はお前に選ばせてやるぞ、喜べ。良い伝手を期待しているぞ? 狐の縄張りには銘酒が多いそうだからなあ」
「準備すんの俺かよ! ってーか今からか、もしかして!?」
「当たり前だ。今日明日にでもと言うておろうが。そら、とっとと行け」
 しっしと手を振りかけて、ふと止める。ぶつぶつぼやきながら踵を返そうとしていた狐神はいぶかしくその顔を見た。

――なあ、正直に言おうか。俺はあの子が、不憫でならぬのよ」

 六道はぼんやりと、己の手を眺めおろす。無力な手だと、そう思う。この世代にたぐいまれな力を持って何をどれだけ殺せたとて、血を吐くほどに無力な手であることには間違いなかった。そしてそのことが、あの子に傷を負わせたことも間違いなかった。
 
 足を止めたままの識神を、かれは強いて口の端に刻んだ笑みで促す。
「…………次郎丸。九曜はいい子だろう?」
 知ってら、と肩をそびやかす狐の、金色の針のような毛並。
「幸せにしてやってくれ、な」
「……善処する。」
 その毛の下で顔色は見えないが、もしいうま人の姿であったなら、その頬は多分赤い。
 するりと部屋を出ていく友を見送り、六道はひとしきり、声を立てて笑った。