「塗籠」
かあさん。
かあさん。
どこ?
◇◇◇
少し、眠っていたようだった。
ふいに冷たくなった初秋の風に鼻先を擽られ、葉常は縁先の転寝から目を醒ました――殆ど無意識の習慣で。隣にころがっている常葉の肩に手をかけ、かるく揺すぶる。うぅん、と呻いただけで目は醒まさなかったので、ひとりで立って、ふらふらと厠を探した。
1024年、九月長月――起居するようになっておよそ一月とはいえ、家中にいまだ馴染みうすい双子の片割れは、一人きりであたりをうろつくということがあまりない。大抵は家人や、お手伝いや、何より双子が双子どうしで一緒にいるからだ。西向きの階(きざはし)近く、手水鉢を使おうとのぞきこんだ水面がぎょっとするほど赤くみえたのを、奇妙によく覚えている。夕映えにあかく染まる廊下は広さも奥行きも何故か、いつもの倍ほどもあるようだった。
それでも、厨からただよう夕餉の支度のにおいに心からほっとして、思う。
そうだ。
かあさんを呼びにいかなくちゃ。
◇◇◇
双子の母である睦月は、きれいで強かった。強くてきれいだった。
所作のいちいちが舞のようで、ゆったりと典雅であるにもかかわらず、繰り出す一撃は的確で隙がない。一度見せてくれたことがある、まるで閃光をはなつような、双撃の演武――その軌跡はいまでも、葉常の脳裏に残っていて消えない。残像よりも強く、刻みつけられてしまっている。
それでも葉常にとっての母の記憶はまず、両の頬をはさみこんだ、たおやかな手の感触である。親指のつけねの豆と、桜貝のようにつややかに整えられた爪。頑是無い赤子の指で触れる胸乳のやわらかさ。甘やかな体温と、まるで十全の安心感。
(いい子ね――)
おなじく腕に抱かれるもうひとつの暖かなかたまりと自分との区別は何度思い出しても、葉常には判然としない。
(お前たち、はやく大きくならなくてはね――)
はやく大人にならなくては、何なのだろう。あのとき母は、何と言ったのだろう。
◇◇◇
あかい廊下と、あかい夕陽と。
ふいに気づく、己の足下に伸びる、長い長い影が。
「かあさん――?」
呼んでしまってから、その声の心許なさに心細くなる。かすれた響きの木霊が、屋敷の母屋につづくはずの廊下の奥行きに吸い込まれていく。
ふいに、喉元につめたい石のような塊がせりあがってきた。せばまって息のしづらい隙間から出そうとした声は、消えぎわの煙(けむ)のようにかぼそかった。
「かあさん――どこ?」
どこ?
どこへ行ったの?
駆け出してしまったのは、何故なのだろう。このとき自分は、何に追いかけられている気がしたのだろう。
◇◇◇
廊下は広く、ぱたぱたと足音がやけに高く響いた。
走れば走るほどそ、まるでその分だけ屋敷の広さが増していくようだ。
手当たり次第に仕切りの障子や、蔀や、妻戸を開けていく――部屋はどれも同じようで、どれも違うように見えた。同じように薄暗く、しんと埃くさく、それでいて散らばった貝あわせの貝や碁石や料紙はどれも違う意匠の、てんでばらばらだった。
誰もいないことが、何故あんなに怖ろしかったのかは、わからない。或いは、わからないことこそがおそろしいのか。
呼んで、呼んで、呼んで、
走って、走って、走って、
最後に辿り着いたのは、どうやら蔵のようだった。うっそりと敷地の隅にあり、古びて塗りの剥げた土塀。ところで今年の春に屋敷とともに建て替えて普請をすませた土蔵は白く漆喰がかがやいており、それ以前の蔵の姿なぞ、夏生まれの葉常が知るよしもない筈なのだったが。
鍵は開いていた。
うんと腕をつっぱらせて体重をかけると、押し戸は子供の腕でも何とか動かすことができるようだった――ひいやりとその隙間から冷気が流れ出してきて、頬をなぶった。息をととのえ、片目を戸の隙間に押しあててみる。真っ暗だ。それでも、次第に目は馴れてくるようだった。
「かあさん、」
呼ぶ。そっと、肩から先に、暗がりに身をすべりこませていく。
かあさん。
ここ?
◇◇◇
何を見たのかは覚えていない。
◇◇◇
あのできごとが、夢か現かもよくわからない――ぽっかりと途切れた記憶の先は、離れに端座していた六道の胸元にむしゃぶりついて泣きじゃくっている場面に繋がっている。あれはちょうど、母の遺体を焼いてその灰を白梅の根元に埋めた、葬儀の日だ。
何を見たのかは覚えていない。
それでも葉常は、ひとりで蔵に入ることが、いまも少し怖い。