鬼の妻問ひ
序、
晴れた日には、きらめく波間から顔を出して、日の光を浴びるのが好きだった。
生きとし生ける全てのものたちを育んでくれる尊い輝き。その、大好きだった陽光が、今の彼女にとっては死に勝る絶望となってさんさんと降りそそいでいた。
――――どうして?
――――どうしてこんなことに。
人魚はゆっくりと、今にも途切れそうに震える息を吐き出した。
四角く切り取られた文月の空は、いっそ虚しいほどに一点の曇りもなく晴れ渡っている。この蒼の片隅にでも、雨雲が湧いてくれたらいいのに。一滴で良い、雨粒が落ちてきてくれたら良いのに。
人魚は、蓋の無い大きな木箱の中にいた。
その無骨な木の箱に閉じ込められているのだ。
箱は外側といわず内側といわず、幾重にも呪禁の札が貼られている。人魚の持つ並ならぬ呪力をそれで封じるためである。
人魚の人の形をした手首は両手を合わせて粗い縄で括られ、魚の形をした下半身は尾ひれの付け根に鉄の枷を嵌められていた。鉄枷からは鎖が伸びており、その鎖の先は木箱の隅に打ち付けられた丸い輪を有する楔(くさび)に繋がれている。ご丁寧な事にその縄も鉄枷も強力な縛鎖の力が込められた呪具。戒められた手首と尾ひれの付け根は浅く抉れて血に濡れており、人魚がその強固な縛めから何度も逃れようと試みた事をありありと物語っていた。
だが、そんな激しい抵抗の傷など目に留まらぬほどに人魚の身体には無数の傷――もはや傷と呼ぶことすらはばかられるような欠損――が有った。すんなりと健康的だったはずの二の腕、美しく豊かだったはずの胸乳、滑らかだったはずの脇腹、優美な曲線を描いていたはずの下肢。それらは刃物でぞんざいに抉り取られたかのように損なわれ、べったりと血に濡れて膿を噴いているのだった。
生ける人魚の肉は至高の秘薬
一口喰らわば病・大傷たちどころに癒え
二口食らわば不老と成り
三口喰らわば不死と成る
誰が最初に言いだしたのか、人の世にはそんな話が語り継がれていた。
人魚がこのようにむごたらしい姿で捕らえられているのは、不運な事にその言い伝えを試さんとする人間の手に落ちてしまったためだった。
もう何度、肉を抉られ血を搾り取られる激痛に苛まれたか思い出せない。繰り返される悪夢のために彼女の意識は曖昧になり、抵抗する力などとうに絶えていた。
――――いっそ死ねたら。
幾度そう思った事か。
汚らしい手で己が身を切り取られるたびに強く強く心に願う。だが、肉体を一部欠いたぐらいでは、体中の血を失ったぐらいでは、人魚は息絶える事などできないのだった。もちろんそれは、彼女を殺さず捕らえておこうとする人間のせいでもあったが、なによりも―――
人魚は、神であったから。
その名を、敦賀ノ真名姫。
不老にして不死、現世に充ちる気を操り、人界の海を彼方から守護する者。人とはその在り方を異にする存在であったから。
神は人界においては肉体こそ持ちえるものの、人間のように肉体によって生きているわけではない。肉体はあくまでも神の意識を人間界に留めておくために必要な錨(いかり)のようなものであり、故にそれが細切れに、あるいは粉々にでも破壊されない限り、神が人の世における“死”を迎える事はありえないのだった。
されど一度肉体を得てしまえば痛みは人のそれと変わらず、意識が肉体から離れない以上、その苦痛は絶えることがない。
容易に死ぬことはできない。その上呪力を封じられていては、半端な肉体を携えたまま天界に戻ることなど輪をかけて不可能だった。
「……み、…ず……。水、を……」
干からびた唇を動かして、真名姫は声を成さない呼気を紡ぐ。
朦朧とした意識の下、今の彼女が求めるのは自分が力とし住処とする柔らかな水の感触だけ。こうして捕らえられ、自由に水に触れられなくなったのはふた月ばかり前のはずだったが、もはや数十年ものあいだ命の水を断たれているような気さえする。
「水……」
再び呟きかけたところで、真名姫はぴたりと吐く息を止めた。
「思い直しませんかい旦那様。いっくら不老不死が眉唾もんだったからって、あんな大金はたいて買い受けたものをあっさり捨てるなんてもったいねぇですよ。あれだけ痛めつけられててまだ生きてられるんだもの、ちょっと餌でも水でもやって、いい具合に介抱してやれば、ありゃあまたぴっちぴっちと息吹き返すかもしれねぇ。そうすりゃまた誰かに売りつける事だってできるし、芸でも仕込んで見世物にするって手もあるんじゃねぇかなぁ」
「だまれッ!儂はあんな下賤の輩にたばかられて心底頭にきとるんだ。金なんぞもうどうでもいいわい。この儂の煮えた腸(はらわた)はそんなもんじゃ鎮まらん!」
ざくざくと土を踏みしめる足音と、野卑な会話が近づいてくる。ほとんど精気を失っていた真名姫の瞳に、暗いが激しい光が宿った。
と同時に、がっ、と箱の淵にずんぐりした手がかけられ、続いて脂ぎって醜悪な男の顔が箱の底を見下ろしてきた。男はいったん振り返って、後ろを付いてきたものに甲高い声で怒鳴り散らす。
「どうだ、よっく見ろこの間抜けが!こんなぼろぼろのカラカラが、餌やら水やら与えたぐらいでぴっちぴちするように見えるかたわけ!海綿でもあるまいに、そんなものくれてやるだけ無駄だ無駄!」
「はぁ…そうですかねぇ」
主人に怒鳴り散らされてびくついた様子の、下男の顔も箱の淵から覗いた。
欲に満ちた人間の手から手へ、盥回しに売り飛ばされ、もう何人目かもわからぬ買取手である。
“―――この、汚らわしい、恐れを知らぬ下衆(げす)ども!!この身に少しでも自由がきけば千もの細切れに引き裂いてやるのに!!”
無礼な視線を注ぐ二人の人間を、真名姫は身体に残るありったけの気力を振り絞り、侮蔑と怒りを込めて睨みつけた。その迫力に下男はヒッと息を呑み、主人はフンッと鼻を鳴らした。
「つくづく大損だったわい。不老不死の妙薬どころか屁の役にも立たん。おまけにこの目、こんな惨めな格好になって、まぁだ自分が人間様より偉いと思い込んどるようではないか!こんな面白くもなんともない腐りかけの魚はさっさと捨ててしまうに限るんじゃ」
下品な暴言を吐かれたことよりも、真名姫は「捨てる」と言った男の言葉に全意識を集中した。
やっと―――人間の手から逃れる事ができるのか。
どんな厭らしい蔑みの言葉でも、解放という名の持つ安らぎの前ではまったく気にならない。
早く捨てるなら捨てろ、そしてさっさと立ち去れ、と、真名姫は前にも増して激しい視線で男を見上げた。
男は真名姫の視線を受けて憎憎しげに顔をしかめたが、ふいにそのひげ面に満面の笑みを浮かべた。
「ほーれ見ろ、半時ほどここにこいつを日干しにしておいた効果覿面じゃ。臭いにつられてうようよ集まってきおったぞ。これで儂の溜飲もいくらかは下がろうというものだ」
男の残忍そうな笑みの訳がすぐには分からず、真名姫はふと不安になった。そしてその不安は、小さな雷鳴のようないくつもの音にどんどんとそのかさを増していった。
―――グルルルルル……
獰猛そうな、それは獣の唸り声だった。耳に神経を集中させれば、ハッハッハッというせわしない息遣いすら聞こえてくる。
瞬間、真名姫は恐怖に身体をこわばらせた。その様子を愉しげに見やって、男が口を開く。
「今儂らが立っとるところは丁度良い具合に崖の上になってるっから安全だがな、すぐ下の野っ原は貧乏人どもが死体を捨てに来る墓場でな、夜中には野良犬どもの格好の餌場になるのだ。どうだ、みんな良いものを食っておるから舌が肥えていそうじゃないか。ふははははっ、さすがに人魚の肉は初めてだろうがな!おい、やれッ」
主人の一声に下男の手が伸びてきて、真名姫の下半身の枷だけをはずすと、よいしょとその身体を箱から引きずり出した。そうして久方ぶりに箱から出された真名姫は、下男に担ぎ上げられた姿勢で眼下を見下ろし息を飲んだ。ヒュッ、とからからの喉が笛のような音を鳴らす。
低い崖の下は、傷だらけの真名姫の血肉の匂いに誘われて集まった野良犬が群れをなしていた。
「い、いや………、やめて……、助けて…っ」
うわずった声で、真名姫は初めて男達に懇願した。だが男は愉しそうな顔をさらに醜くゆがませると、無情に命じた。
「やれぃ!」
下男の手は、鞠を転がすように人魚を崖下へ落とした。
「いや―――――――――!!!!」
その身体が地面に叩きつけられる衝撃よりも、飛び付いて来た犬どもの杭のような歯が肌に食い込む痛みのほうが先だった。
生臭い息、獰猛な唸り、かけらの慈悲もない咀嚼。
「きゃあぁああぁあッッッ!!!!!」
痛い、痛い、痛い、イタイ。
いや、もはやそれが「痛い」という感覚なのかすら分からない。
がはははははは、と、頭上から下卑た笑い声が降ってくる。
―――殺して、殺して。
―――殺してやる、殺してやる。
―――人間なんて、みんな、殺してやる。
頭が割れるような強い憎しみだけを燃やして、人魚は意識を失いかけた。―――その時。
ギャンッ!
頭の隅に、哀れっぽい犬の悲鳴が響いた。それを皮切りに、自分の周りを取り囲んでいた犬達が次々に断末魔の声を上げ始めた。そしてふいに、辛うじてつながっていた真名姫の二の腕を何ものかが掴み、折り重なって倒れた獣の死骸の中から救い出した。
「…………ッ」
もつれて絡み合った髪の隙間から、真名姫は自分を犬の群れから引きずり出してくれた者の姿を見た。
鮮やかな朱い髪。鮮やかな色の着物。それに負けないほど鮮やかな黄金の瞳が、じっとこちらを見つめていた。
それは華奢な、まだ年端もいかない少年だった。
「…ァ、……」
誰?何故?どうして…?
問いかけは声にならず、真名姫は少年の綺麗な瞳を見つめ返す事しか出来なかった。と、ふいにその金色がゆらりと揺れて、うっすらと薄紅に色づいた眦(まなじり)から大粒の涙がこぼれだした。
後から後から溢れてくる透明な雫に見とれかけた時、頭上からあの厭らしい人間の声が。
「きっ、貴様ぁっ、小僧っ、なんて事をしてくれたんだ!そりゃ儂のモンだぞ!勝手に人の楽しみをぶち壊しおって!ぅぅおのれぇ、子供とてただではすまさんぞ!!」
そういって男は、腰にぶら下げた太刀を抜き放った、ようだった。
もはや顔を上げることすらままならない真名姫には、その様子を見て取る事はできなかった。ただ、自分を助けたせいで、この少年まであの下衆どもに嬲られるのかもしれないと思うと、すまなくてならない。
不安に苛まれながらなおも少年の瞳から目を逸らせずにいると、その目が片方ぴくりとひきつった。
「―――これだから人間は……」
まだほんの子供の声だった。
しかしその中には、世に倦んだ老人のような達観と、親兄弟を全て殺されでもした者ような混じりけの無い憎悪が同時に存在した。
その事に気をとられた刹那。
“グシュッ”
頭上で何かを握り潰したような音。
続いて、パタパタパタッ…といくつもの細かな水滴が二人の上に降り注いだ。
―――ああ、雨だわ…。
欲しかった、焦がれ続けた無数の雨粒。
それが瞬時に真名姫の身体を潤したかのように、その瞳からも涙が流れ出した。
少年はそれを見ると、綺麗な顔をくしゃくしゃにして泣き出した。
「かわいそうに、かわいそうに、かわいそうにッ!……泣かないで、あんな奴ら、ボクが一人残らずこの世から消してやるから」
泣いているのは、かわいそうなのは、あなたのほうだ、と真名姫は思った。
赤子のように泣き出して真名姫を抱き締めた少年の背を、真名姫はいくらか動く左腕でなぐさめるようにそっと撫でた。
二人を濡らした雨は、鮮やかに赤い色をしていた。