鬼の妻問ひ





一、嚆矢


「お兄ちゃんは、鬼なの?」
 少しも悪びれたところの無い無邪気な問いかけ。だがそう聞かれた少年は思い切り顔をしかめた。
「なーに言ってんだ、こんなかっこいい鬼がいるわけないだろ!俺は人間だよ人間。お前とちっとも変わんないさ」
 夕暮れの野原に、幼い少女と、それよりは少し年上に見える少年の二人が佇んでいた。夕日の朱に染め抜かれた野は、二人の話し声の他は音もなく、しんと静まり返っている。
 少女は、少年の答えに少しだけ首をかしげ、それから彼の頭を指差して言った。
「でも、お兄ちゃんツノがあるよ。鬼の頭にはツノがあるんだってお父ちゃんが言ってたよ」
 そう、少年の頭には、両耳の上あたりから生えた、小さな子供の骨のような白い角があった。夕暮れの中で見る二人の髪は黒く、その茜色を跳ね返す瞳はともに飴色に輝いていたが、ただ一つその角だけが二人の姿を分け隔てている。
 人の身に、その角は存在すべきものではない。少年が、確かにただびととは違うモノである証。
 それを指摘されて、しかし少年は少しもひるまなかった。にやり、と、それはそれはいたずらっぽく、不敵で不遜な笑顔を浮かべて少女を見下ろした。
「これは鬼の角じゃないぜ。確かに鬼には角が生えてるもんだけど、角が生えてるものがみんな鬼ってわけじゃねぇだろ。牛だって鹿だって馬だって生えてらぁ……あれっ、馬は生えてなかったっけ?」
「じゃぁお兄ちゃんのツノは、うし?」
「違うよ、よ〜く見ろって!これはな、龍の角なんだ」
「りゅう?」
 耳慣れない、という様子で首を傾げる少女に、少年はえへん、とふんぞり返って続ける。
「そ、龍。京の都はな、えーと、北を玄武、南を朱雀、西を白虎、東を青龍って神獣に守られてんだってさ。その、東を守る青龍の頭にはこういう、先の分かれた角が生えてるんだ」
 その、自慢げな説明を、事情を知る者が聞いていたら微笑ましく思ったに違いない。少年はその神獣の話を、つい昨日家人から教わったばかりだったのである。
 その説明で納得したのか、少女はへぇえ〜と、憧れを込めた目で少年を見る。
「じゃあ、お兄ちゃんはすっごく強いんだね!みやこを守る……ち?ち、ん、じゅ、う?と同じなんだもんね!」
「珍獣?違う違う神獣!…まぁとにかくそうだな、俺は強いよ!鬼なんかよりよっぽどさ」
 強い、といわれたことにすっかり気を良くして、少年は再びえへんと胸をはった。
 
 ―――ゴーーーーー…ン…

 静寂に包まれていた野原に、ふいに西寺の鐘の音が響き渡った。
 それを聞いた後で、少女ははっと目を見開いて、あどけない顔を少年に向けた。
「今、きこえた!父ちゃんと、母ちゃんが、あっちで呼んでる。―――あたし、行かなくっちゃ」
 少年は先ほどの不適な笑顔からふっと優しい表情になって、「そっか、よかったな」と小さくつぶやいた。
「もう迷子になんかなんなよな。俺、いつもここに来るってわけじゃねぇんだから。一人ぼっちは寂しかったろ?これからはちゃんと、父ちゃん母ちゃんと手ェつないでけよ」
「うん!じゃあね、“ちんじゅう”で“りゅう”のお兄ちゃん!」
 少女は手を振ってから、静かな野原の中を、薄れかけた夕焼けのほうへと駆けていって、そのうち見えなくなってしまった。
 一人ぽつねんと残された少年は、急にあっ、と短く声を上げた。
「ちんじゅうじゃねェーーーッ!し・ん・じゅ・う・だ・ぞーーーーー!!」

 ―――ゴーーーーー…ン…

「嚆矢!ここにいたのかよ!」
 少女の去った夕日の方角に向かって声を張り上げた姿勢の少年に、声をかけながら走り寄ってくる影があった。すると同時に。
 フィリリリリリリリ…
 ジー、ジー、ジー、ジー…
 ざわ、ざわ、ざわ…
 葉月の終わりの野原に似つかわしい虫の音や草が風に靡くにぎやかな音が急激に聞こえ出した。
 真っ赤な夕焼けを纏っていた空は、わずかな残照を残して急激に夜の色へと変わっていく。
 声のしたほうを振り返って、嚆矢(こうし)と呼ばれた龍の角を持つ少年は、「そういやぁ、名前には“うし”も付くんだよなー」などとのんきな事を考えつつ応えを返した。
「牙羅(がら)!!よくここにいるってわかったなー」
「わかったなー、じゃねぇよ!お前の行きそうなとこあちこち探してやっとここまで来たんだぞ!今日は当主から大事な話があるから、日が傾く前に帰ってこいって言われてただろ?」
「あッ、そーだったっけ」
 “ったく嚆矢は世話が焼けるんだから”とブツブツこぼす牙羅は、夕闇の中にも鮮やかな赤い髪で、嚆矢とさほど歳の変わらなそうな少年だ。
「おーい、アホたれ息子〜!当主は話が始められなくてかんかんだぞ〜!髪逆立てて鬼みてぇに怒ってたぞ〜!飛空大将みたいだったぞ〜」
「…弓弦(ゆづる)、いくらなんでもそこまで脚色することないだろう。叶恵(かのえ)が聞いたら憤慨するよ」
 さらに牙羅が走ってきた方角から、大人のものらしい影も二つ近づいてきた。一人は嚆矢をアホたれ息子と呼ばわった、嚆矢と良く似た黒っぽい髪の青年で、もう一人は牙羅と似た赤毛の、一見性別不詳の優しげな青年である。
「親父、しーちゃん!なんで親父たちまで来てんだ?」
「散歩だよサンポ。ついでにアホたれ息子探しでも行ってやるか〜ってなわけでな。ったく、行き先も告げずに一日中留守にする餓鬼があるか莫迦モン」
「嚆矢、一人で出た時はたとえ武器を持ってたとしたって、子供は日暮れ前にはうちに帰ってこなきゃならないよ。何度も言っているけど、この時間帯は鬼どもが目を覚まして巣穴から這い出してくる時なんだから」
 嚆矢の問いかけに、大人達二人はそれぞれの性質の違いをはっきり表すような言葉を返してくる。この、良く言って少々おおらかすぎるほどおおらかでおおざっぱな父・弓弦(ゆづる)と堅実で現実的な“しーちゃん“こと獅牙(しが)は、一見お互いに相容れなそうな感じであるのに仲が良い。自然、彼らの息子である嚆矢と牙羅も、嚆矢が生まれて、竜川の家に降りた時から至極仲が良かった。
 そう、二組の親子らの姓は竜川という。鬼ではなく、人でありながら神の血を、いまやその身の半分以上に宿す鬼狩りの一族、というのが嚆矢の本当の正体だった。
 でもそんなもの、当の嚆矢にはさしたる問題でもない。龍の子だろうが神の子だろうが、悪い鬼をやっつけるために生まれてきたのであることに変わりはないのだから。敵に勝利して、都を守る事にもなんの変わりもない。人にどういわれようとも、幼く、幼いなりの正義感と覇気に溢れる嚆矢の理由は単純なものなのだった。
 大人たちに二様の小言を言われて帰路に着きながら、嚆矢と牙羅はこれからの話に夢中になった。
「きっとさ、今日の話し合いに嚆矢も入れてもらえるってことは、来月は初陣だぜ」
 牙羅が言うと、嚆矢は目を輝かせて、「よっしゃー、やっぱな!楽しみだなぁ」と心底嬉しそうに言った。
 竜川家では、家に来て二ヶ月修練を積んだ時点で初陣が許される。嚆矢が親神のいる天界から降ろされて二月がもうすぐ過ぎる。外見にして8歳ほど。それでもう、一族の間では立派な戦力と見なされ、戦いにおいては大人と同等として扱われるのだ。隣にいる、嚆矢よりもひと月年上の牙羅も、つい先ごろ初めての討伐から無事帰還したばかりだった。
「次は嚆矢も一緒に行けるといいな!」
「行くさ、あたりまえじゃんか!二十間先を飛んでる羽虫だって射られるようになったんだぜ。絶対行く!」
「おい嚆矢、言っとくがな、夕日が傾いたのさえ気付かないようなニブチンじゃあ討伐に出たってころりと殺られるだけだぞぅ」
 意気揚々と初陣への意気込みを語る息子に、後ろを歩いていた弓弦がちゃちゃを入れてくる。
「うるさいなぁ、そんなの親父に言われたくねぇよ!朝日が夕日になっても起きなかったりするくせにさっ」
「あ、こいつ!なんかだんだん小癪な感じになってくんな。くそ〜誰に似たんだ」
 むっとしてみせる弓弦に皆でひとしきり笑った後、思い出したように獅牙が口を開いた。
「でも、本当に何故こんな時間まであんな所に居たんだ?誰かと話しているようにも見えたが、嚆矢のほかには誰も居なかったし」
 そうそう、と獅牙の言葉に頷く牙羅と弓弦に、嚆矢はエッと目を見開いた。
「何言ってんの、しーちゃん。俺ずっとちっこい女の子と一緒に居たじゃん。牙羅が俺のこと呼ぶすぐ前まで」
 今度は三人がエッとなる番だった。
 その様子を余所に嚆矢はひとりごちる。
「俺だってさ、一瞬前まですぐ帰ろうとは思ってたんだ。でもあの子が迷子になってて父ちゃん母ちゃんが迎えに来るまでここで待ってるっていうからさ〜。ほっぽって帰るわけにいかねぇだろやっぱり」
 そこまでつぶやいてから、ぽかんと自分をみている三人の視線に気付き、嚆矢は首を傾げた。
「…どーしたんだよ?そんな、親父まで岩魚が喉に詰まった獺(ウソ)みたいな目ェして」
「嚆矢…?女の子が居たって言うのか?俺が声かける一瞬前まで?」
 その、あまりにも意外そうな牙羅の様子を見て、嚆矢は「ああ」、と納得した。

「そっか、またかぁ。……あいつ、皆には視えない奴だったんだな」

 まったく平然として、嚆矢はそんな風に言った。
 その瞳は、夕日の光に照らされていなくともきらきらと美しい黄金色に輝く。
 ―――この世ならぬもの、不可視のものをその目に捉えることが出来る―――
 それが、嚆矢が天から授かった奇妙な体質なのであった。




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