二、初陣


 屋敷の庭から見上げた早朝の空はすっかり高くなって、吸い込む空気はかすかに山の匂いがした。これが秋のにおいなのかなぁと鼻をすんすんやっていると、とたんに耳たぶをひっぱられて嚆矢はうめき声をあげた。
 視線を地上に戻せば、耳たぶに手をかけたまま父の弓弦がしかめっ面をしている。
「ったく、なんでお前はそう気分が散漫なんだ。そんなとこばっかり俺に似てくれるな。―――いいか、矢は絶対無駄に打つんじゃねぇぞ。最初に出てくんのは大抵雑魚だから、そういうのは術だけで十分凌げる。それから、余裕があれば使った矢は骸から抜きとっておけ。折れたり曲がったりしちまってるのはしょうがないが、そうでなきゃまだ使えるんだからな。慣れれば骨と骨の間を狙って急所を射ることもできるようになる。そうすりゃ矢尻の交換もいらねぇし…」
「あ〜!わかったって!昨日から何度も同じ事言ってるぞ親父。いい加減聞き飽きた」
 嚆矢が口を尖らせると、父親は溜息をついた。
「ほんとかねぇ……ま、今さらくどくど言ったってしかたねぇか。実戦で痛い目見りゃ嫌でも覚えるだろ」
「へん!痛い目なんか見るもんか!」
 強気に言い返してふんぞり返る息子に弓弦はそれ以上は何も言わず、なにやら眩しそうに目を細めて笑った。
 今日、嚆矢は生まれて初めて鬼討伐に赴く。
 迷子の少女の相手をしていて一族の合議に遅れたあの日、次の討伐隊に入るよう当主に言われた嚆矢は飛び上がって喜んだものだった。物心ついた時から地道に弓やら術やらの手ほどきを受けて来てはいたが、それらを実際に鬼相手に試す機会などなかったから、自分の力がいったいどれほどのものなのか早く知りたいと、無邪気な嚆矢はずっと初陣を待ち望んでいたのだ。
 もちろん早く帰っても10日、場合によっては2週間以上ものあいだ鬼の巣窟に潜り続ける討伐が生易しいもので無いだろう事は、いくら能天気な嚆矢でも想像できる。だがそれよりも今は、見たことの無い場所へ出かける冒険心のほうが先に立って、はやる気持ちを抑えられないのだ。
 初めて身に着けた戦装束はまだ少し大きめで、背にくくりつけている矢筒は良く使い込まれた父のお下がり。使い慣れてしっくり手になじむ「八雲ノ弓」は、念入りに手入れして手に慣らしたせいかいつもより数倍頼もしく見え、小さな弓使いはすっかりご満悦なのだった。
「もしもお前達が痛い目に遭ったなら、その時は私が助けに言ってやるよ」
 得意満面の背中にそう声をかけられ振り返ると、微笑みながら階(きざはし)を降りてくる獅牙と目が合った。後ろには鎧を着けた牙羅も続いている。
「しーちゃん、牙羅、はよッ!なんだよ、親父もしーちゃんも俺が必ず危ない目に遭うって決め付けてねぇか?出陣前に縁起わりぃぞ!!」
「わはは、びびっってんのか嚆矢」
「びびってねェーーー!!」
 弓弦の茶茶に嚆矢がつかみかかって暴れている間、獅牙も見送りの言葉を息子にかけたようで、嚆矢が装束も頭もぐしゃぐしゃにされて我に返った時には、牙羅はもう真剣な面持ちで獅牙から離れるところだった。
 それに目をやった弓弦は、嚆矢の頬を引き伸ばしていた両手を放し、ふいに真顔で言った。
「…嚆矢、お前獅牙にもちゃんと挨拶して来い。緊張してないのはいい事だが、出陣前にはけじめも必要だ。お前ら出陣組と俺ら留守番がまた互いにツラを拝める保障はどこにも無いんだからな」
 滅多に見せることのない父の真面目な表情に、嚆矢は少し息を呑んだ。
―――そうなんだ……。ちょっとヘマすりゃ俺、生きて帰って来れねぇかもしれないんだ。一緒に行く牙羅たちだってそうだ。四人揃って帰って来られるかどうかなんてわかんねえ)
 先月、牙羅や他の者達が無事討伐先から帰還した姿を見ることが出来たのも、必ずしも約束されている事ではないのだ。
 嚆矢は獅牙に駆け寄ると、その腕を取った。
「しーちゃん、俺絶対大活躍して、無事に帰ってくるからな。牙羅も、当主も、寂幽兄ちゃんも、みんな無事につれて帰ってくるからな。安心して待ってて!」
 神妙な面持ちで、自分にも言い聞かせるようにそう言った嚆矢に、獅牙は目を細めて笑った。
「嚆矢がそう言うなら何も心配はいらないな、帰ってくるのを楽しみに待っているよ。……牙羅にも言ったが、戻ってくる頃にはまた随分大きくなっているんだろうな……」
「かっ、甘いねお前は!もっと脅かしときゃいいのによ」
「またそういうことを…」
「ッこぉのぉぉ〜〜〜〜」
 先ほどの真面目さはもうどこかにうっちゃって横やりを入れてくる弓弦に、獅牙は苦笑し、嚆矢は再び猛然ととびかかる。
 そこへ、
「ちょっとそこ!!いい加減静粛にしなさい!!」
 今回の討伐隊長である当主の叶恵(かのえ)が素晴らしくよく通る声で一喝し、やんちゃな親子二人を一発で黙らせた。
 嚆矢らがわいわい騒いでいるうちに庭には同じく出陣の支度を整えた槍使いの寂幽(じゃくゆう)も出てきており、出陣する者たちを見送りに、いつの間にか他の一族らも起きだしてきていたのだった。
 皆こんな朝は慣れっこの様子で、「まぁ死なない程度にがんばれよ」「おみやげ期待してるわね」などと軽口を叩いていたが、叶恵が「そろそろ行くわよ」と声をかけたとたんに真面目な表情になった。
「忘我流水道はこれまで討伐に行った記録がほとんど無いから、少し手間取るかもしれない。皆、わたし達が不在の間、留守を頼みます」
 叶恵の言葉に、家に残る者たちは口々に「お気をつけて」と言って一礼する。普段は皆、歳若い叶恵に気安い調子で接するが、この時ばかりは心底当主を敬っている様子が感じられ、嚆矢はへぇと目を丸くした。
「おい、あんまりよそ見ばっかするなぼうず、せいぜいきばってこい」
 声のしたほうへ顔を向けると、父がぐりぐりと頭を撫でてくれる。
「わかってるよ!」
 にやりと笑って応えるのとほぼ同時に、屋敷の門扉が古めかしい軋みを上げて開かれた。
 門を開ききった所で、イツ花が元気のいい大声で言う。
「皆様、くれぐれもお気をつけて。いってらっしゃいませ!」 



 *     *     *



 朱点童子が統べる鬼の巣窟の一つ、『忘我流水道』は、羅生門を出て巽(たつみ)の方角へ半日ほど歩くとたどり着く。入り口は荒れ野のただなかにぽつねんと建ったみすぼらしい岩屋なのだが、そこへ一歩入り込むと、長く急な石段が地の底へと続いているのを見つける事が出来る。その石段をひたすらに降りに降りて、降りきったところで、眼前には整然と整えられた水路が姿を現すのだった。
 もともとそんなものが京にあったのかどうか、詳しい事は誰にもわからない。一説ではそれは、太古の昔に人々が暮らした跡だとも、またその人々が堀りぬき創り上げた広大な墓所だったのだろうとも言われていた。
 竜川一族が以前この場所に足を踏み入れたのは、もう何年も前の事である。さほど奥まで討伐を行ったという記録もないのだと、当主の叶恵は少し不安げな顔をしてみせたものだった。
 だがその様子を見て嚆矢は逆に、いよいよ過酷で先の読めない大冒険への期待に胸を膨らませたのであった―――
 ―――が。
 
 竜川家の討伐隊一行が忘我流水道に入って四日目。
「がぁぁ〜〜っハラ減ったあぁーーーーーー!!」
 “減ったぁーーーーー”
 “ったぁーーー…”
 “ったぁんん…”
 どこまでも続く洞窟の中に、その声は虚しく響き渡った。
「バカ嚆矢!!今のでまた鬼どもが集まってくるじゃないの!」
 先頭を歩いていた叶恵が、音がするかというほど思い切りよく振り向いて声の主を怒鳴りつけた。けんつくと雉のように食って掛かってくる叶恵に身をすくめるでもなく、嚆矢はせつない溜息をついた。
「だってさー、最後に飯食ってから多分もう一日以上経ってるんだぜ?しかも水と小っせぇ干し肉と干し飯しか食ってねぇし…こんなんじゃ力出ねぇよ…。…ああ〜イツ花のしょっぱい味噌汁が飲みたい。茶碗いっぱいのメシが食いたい」
 そう言った側から、嚆矢の腹の虫は「まさしくそのとおり」と言いたげにギュルギュルと鳴きわめく。すぐ隣に居た牙羅が爆笑して嚆矢の背を叩いた。
「ははははははっ、止せよバカ、俺にもうつるじゃねぇか!嚆矢、ちびのくせに大メシ食らいだからなぁ…、気持ちはわかるけどさぁ」
「あ…あのねぇ…。あんた達、緊張て言葉知ってる!?」
 なおも説教を食らわせようと口を開いた叶恵を、しんがりを努めている寂幽が笑ってなだめる。
「まぁまぁ叶恵、こう言っちゃなんだが俺らは鬼退治に来てるんだ、あちらさんからのこのこ寄ってきてくれるなら儲けものじゃないか。嚆坊の雄たけびもそうむげにしたもんでもないと思うぞ」
「また寂幽兄さんは暢気な事言って。今回は少しでも疎水の奥まで進んで洞窟の総大将に近づく事を目標としてんのよ!?今から体力減らしてどうすんの!こんな所でちんたらやってたらそこのお気楽なガキが莫迦みたいに執着にしてる食料だってもたないでしょうがァ!ちょっと嚆矢、聞いてんの!?」
「聞いてるよォ。分かってらい、やったればいいんだろ!よぉぉしやるぞーーー!もうひと頑張りィ!!―――ん?」
 顔を上げ、声を張り上げた嚆矢の目にその時、水道の奥のほうから灰色に濁ったもやのようなものが近づいてくるのが見えた。
 とたんに、ぐうぐうと不満を訴え続けていた腹の虫がぴたりと鳴き止み、首の後ろが総毛立つ。
「当主、来る!」
 嚆矢の様子に怒声を引っ込め、すかさず薙刀を構えると、ちらりと笑って叶恵は言った。
「どんなにお莫迦でも、あんたの目だけはバカに出来ないわねェ」
 嚆矢の目が捉えたもやのあたりから、やがて黒い影りがこちらへ近づいてきた。影は見えたと思った時にはもう目前に迫り、息付く間もなく派手な水しぶきを上げて、妖魅ノ群れが姿を現した。
「まず後ろの雑魚を殺るよ、一匹も逃すな!―――寝太郎!!!」
 当主が自ら敵を眠らせる術を唱えた。そこへ寂幽がすかさず業火を叩きつける。
 だいたいの雑魚はこれで滅ぶが、中にはしぶとくしのぐ者もある。それらを嚆矢が覚えたての術でさらに攻め、残りを牙羅の剣が完璧に討ち取る。
 討伐を始めて数日を共に戦ううちに、四人の連携はほとんど隙のないものとなっていた。
 水路に入り、最初に鬼に取り巻かれた時にはさすがの嚆矢も臆したが、自分の術や矢が多少なりとも鬼に通用する事、そして少々他人とは異なる性質を持ったおのれの目が、思いのほか戦いに役立つ事がわかると、単純明快な性格も手伝ってすぐに恐怖は消えたのだった。
 危険なもの、害意を持つものが近づくと、嚆矢の目はそれらを不穏な像として誰よりも先に捉える。それゆえ敵に後ろを取られることや水面下から急襲をかけられることはほとんどなくなり、戦闘は思いのほか楽に済ませる事ができたのである。
 最後に残った金トラ大将が断末魔をあげて水底に沈み、そのまま下流に流されてゆくを確かめてから、一行はゆるゆると構えを解いた。
「……ふぅ、もう周りに鬼の気配はないわね。今のうちに少しでも奥に進みましょ」
 叶恵が振り返って他の三人を見回したところで、
 “ぐぎゅるるるる〜〜〜”
 盛大な音を立てて嚆矢の腹が鳴った。
「そのまえにメシだよ当主〜〜」
「だなァ、俺も腹減ったよ当主!」
「叶恵、この先ゆっくり出来る機会があるかどうか分からないんだし…」
「わ、わかったわよ…」
 少し宿営できる場所が無いかと四人で辺りを見回し、今しがた歩いてきた下流のほうを見やった嚆矢は声をあげて指差した。
「なぁ!あれちょっと焼いたら食えないかなぁ」
 なんだなんだと覗き込んだほかの三人は、一瞬置いて、それぞれになんとも形容しがたい厭な顔をした。
「かわずって鳥の肉に味が似てるって親父が言ってたよ?」
 嚆矢が示した先には、先ほど倒した五七のガマの白い腹が、水面をぷかぷかと浮き沈みしながら流されてゆくのが見えたのだった。



 *     *     *



 ―――そのようにして一行は、端から見れば一見なんの苦労もなく水路を斬り進んで行った。
 当主が懸念していたよりもよほど平滑に、足取り軽く、疎水の奥まで進行したのである。だが、水路に降りて六日を過ぎた辺りから、さすがに彼らにも本当の疲れが見え始めた。
 その原因は、音やにおいを敏感に嗅ぎ付けて集まってくる鬼の群れよりもむしろ、一時も止まる事の無い水流のほうにあった。
 四人が目指す迷宮の深部は水路の上流であるため、当然ながらほとんどが水流に逆らっての道行きとなる。
 鍛えぬいた武人であっても、よほどの体力と根性がない限り一日二日歩けば根をあげるような難所。だがそこは常人よりもはるかに強靭な肉体を与えられている竜川一族のこと、ほとんど休まず食わずの行軍にもかかわらず、威勢良く鬼を斬り伏せながら一週間以上も奥へ奥へと潜り続ける事が出来たのだった。しかしその間に水流は少しずつ四人の体力と体温を奪い取り、溜まった疲労はじわじわと身体を重くしていった。始めのうち四人の間にぽんぽんと飛び交っていた軽口は、いつの間にか重い溜息に変わってしまっている。
「ちきしょう、重くて足が前に出ねぇ」
 水路の天井を支えている柱が崩れて少し岸になっている場所に上がると、息を弾ませながら嚆矢は装束の裾をたくし上げて絞った。水を含んだ布は岩を括りつけられたように重く、ともすると水中に引きずり込まれそうになるのだ。
 他の三人も似たりよったりで、膝の上まで装束をたくし上げ、たすきで縛るなどして少しでも水の抵抗を減らそうと苦心している。
「なんでご先祖たちがあんまりここの討伐を進められなかったか、わかるような気がするよ…鬼をやっつけようって気力が水と一緒にどんどん下流に流れてってしまうような気がするもんなぁ…」
 水底に立てた槍の柄に寄りかかりながら寂幽が苦笑するのを、叶恵がしかめっ面で叱咤する。
「寂幽兄さんまで情け無いこと言わないで!そんなこと言ってたら何年たってもこの奥にいる大将のところまでたどりつけないじゃない。もう…!私の代でなんとしてもこの水道を最奥まで究めてやりたいのに!」
「腹減ったなー…やっぱあの時のガマ食っときゃ良かったぜ…」
 思わず嚆矢が呟くと、キッと叶恵の視線が嚆矢のほうに向く。嚆矢はそれでハッと自分が弱音をこぼした事に気付き、勢いよくかぶりをふって立ち上がった。
(冗談じゃねぇ、こんな事言ってたって親父やしーちゃんに言いつけられてたまるか!俺は、俺は、立派にやらなくっちゃ!)
「…よっしゃ、行こうぜ!もうわけわかんねーくらい長いこと歩いてきたんだ、きっともうすぐ総大将だかアオダイショウだかの所にぶち当たるって!行こ行こ!」
「嚆矢は偉いなぁ…若いって良いねぇ叶恵」
「あたしを仲間にしないでくれる?こっちだってまだぴちぴちなんだから!よし、じゃあ行くわよ!さ、牙羅もほら!」
 岸からふたたび水に下りた叶恵が、岸に立ち止まったままの牙羅を促す。だが牙羅はうなだれて、叶恵のほうを見ようとしない。嚆矢は岸に立ったままなかなか動こうとしない牙羅に違和感を覚えた。
 そういえば、しばらく牙羅が喋っているのを聞いていない気がする。常ならば自分と競うぐらい騒がしい牙羅が、いくら疲れのためとはいえここまで大人しくなるものだろうか。楽しい話題にならなくとも、疲れたとか後どれだけ進めばいいんだとか、うるさく愚痴るくらいしてもよさそうなものなのに。ガマを食う食わないで馬鹿騒ぎしていた数日前はまだ、うるさすぎるくらい元気だったのに。
「どうしたんだよ牙羅。どっか怪我とかしてるのか?」
 訝しんで問いかけると、やっと牙羅はかぶりを振って顔を上げた。驚いた事に、泣きそうな顔をしている。
「なぁ当主、今回はもう帰ろう…!俺、…俺、これ以上進みたくないんだ。疲れたし、寒いし、このまま大将のところへ辿り着けたとしたって、ちゃんと戦える自信、俺ねぇよ!」
「な、何言ってんの、やっとここまで来たってのに!!あんたそれでも……!……あ」
 怒鳴りつけようとした叶恵の袖を寂幽がそっと引き、叶恵は何かに気付いたように目を見開いた。それから一瞬置いて、やはり泣きそうな顔になって黙った。
「……?どうしたんだ?みんな。牙羅に何かあんの?」
 なんとなく、その様子にいきなり自分だけ仲間はずれにされたような気がして嚆矢は顔をしかめた。そして、次に発せられた叶恵の一言にさらに面食らった。
「……そう、ね……。まだ、ここに来れる機会は何度かあると思うし…。術や、強力な武器もいくつか手に入ったもの、収穫が皆無だったわけじゃないものね。別に、今無理する必要は……」
 さっきまであんなにやる気まんまんだった叶恵が、いきなりしなびた瓜みたいにしゅんとして、あまりにも不似合いな弱音を吐いている。いつも飄々としている寂幽が沈痛な面持ちで牙羅を見つめ、牙羅はらしくもなく、洞窟の大将の居場所を前にしり込みしている。しかも三人の“らしくなさ”は、嚆矢が知らない、三人だけが共有している「なにか」が原因なのだ。
 ―――嚆矢は、……嚆矢には本当にめずらしいことなのだが、苛々した。
「牙羅、なんでだよ!!なんかおっかない事があるなら言ってみろよ!なんでもないって俺がちゃんと確かめてやるから!そしたら何もこんなところで引き返すことないだろ?先に進めンだろ!?」
 思わずむきになって怒鳴ってしまった。
 ―――苛々する。
 その苛立ちは、本当のところは不安から来るものだった。
 初めての討伐、初めての鬼の巣窟で、初めて鬼を殺して、初めて体が言うことをきかないぐらい疲れて、本当は嚆矢だって、皆が帰ろうかと言ったら、父が、獅牙が帰って来いと言ったら、「うん」と言ってしまうに違いなかった。
 それでも、意地でも手柄を立て、立派に事を成し遂げて帰ってやろうという意地がある。ここで帰ったら意味がないのだということも、幼い頭なりにうっすらとはわかる。だというのに三人は急に、嚆矢には理解できない理由で歩みを止めてしまったのだ。
 だから嚆矢は、いきなり皆が臆病風にふかれて後じさりし、嚆矢だけが取り残されてしまったような気がしたのだ。
 急にこの暗い水路に一人取り残されたような気分になったのである。
「嚆矢、悪ィ…。俺だって、こんな気分になるなんて思ってもみなかったんだ。…けど…俺、どうしても早く帰りたくて」
 牙羅のその言葉に、嚆矢はとうとう爆発した。
「ばっかやろう!!そんなんでしーちゃんに笑われても知らねーからな!!みんなが行かないなら俺一人でも行ってやる!!」
 そう叫んで踵をかえす瞬間、牙羅の緑の目がすっと薄い色になったのを目の端にとらえたが、それを気遣う余裕などもう無かった。
「あっ、ちょ…っ!待ちなさい嚆矢!嚆矢!!」
 叶恵の制止を思い切り無視して、嚆矢は一人水路の奥へと駆け出した。いったん我を忘れると、絡みつくような足元の水もいっかな気にならず、嚆矢はぐんぐん足を速めた。騒ぎに気付いて寄ってくる鬼は、すでに使えるようになっていた強力な水の術ですべて薙ぎ倒し、わき目も振らずに駆けてゆく。
(なんだ、鬼なんて全然怖くないや!俺ひとりで全部倒せるじゃねぇか!)
 そうやって暴れながら駆けるうちに、後ろから叶恵達三人が懸命に追ってきてるのに気付き、嚆矢は少し気をとりなおした。
(なんだ、みんなやれば出来るじゃねぇか。このまま俺に付いて来い、そのなんとか大将のところまで連れてってやる)
「嚆矢待てよ!一人じゃ危ない!!」
 牙羅のせっぱ詰まった声を背中に聞いて、少し悪い事をした気分になったが、もう止まれなかった。
 走って走って、走った先に、今までこの疎水に入ってから一度も目にしなかったものを見つけた。
 ―――階段―――
 流れる水の勢いはこれまでにないほど強く、絶えず不穏な地響きのようなものを足元に感じる。
 嚆矢は少しだけ立ち止まって辺りを見回し、目を見開いた。
 鬼が近づいてくる時に必ず見えた、もやが――――その階段の先からとめどなく溢れ、嚆矢の立っているあたりまで、のたうつように流れてきていた。
 嚆矢はぶるり、と一つ震え、それからじっとその階段の先を、黄金に輝く瞳で睨み据えた。
 立ち止まった嚆矢にやっと追いついた叶恵達が、息を切らしながら近づいてくる。
「嚆矢!なにやってんのあんたは!……え…、なに、この階段、もしかして……」
「……この先に、なんかすげぇ奴が居る。……そいつを倒してやっと、今回の討伐の成果ってのになるんじゃねーか、当主…」
「こ……」
 叶恵が止める間もなかった。
 嚆矢は軽やかに階段を飛ばして張り出した岩場に飛び乗ると、その傍にぱっくりと口を開けた洞窟に勢いよく飛び込んでしまった。
「まずい、叶恵…!俺達も行こう」
「うん…、……ああもう、信じられない莫迦だわ!!」
「当主!早くしねーと嚆矢が……!!」
 三人は急ぎ嚆矢の後を追って洞窟に駆け込んだ。



 *     *     *



 ―――その一部始終を、彼らの頭上に突き出た岩棚の影から密かに見つめていた人影があった。
「へェ…、久しぶりに面白そうな奴らが来たじゃないか……。たまには遊んでやろうかな。真名もきっと、喜んでお相手してやるのに違いない。ククク…」
 影は優雅に宙を漂ったかと思うと、次の瞬間、跡形もなく掻き消えた。




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