非時香菓(ときじくのかくのこのみ)





 蝉の声がずっとずっと、途切れることなく聴こえていた。
 けれども、部屋の中は雪でも積もったみたいになんだか冷えて、しんと静まりかえっていたように思う。
 白い布団の上で、家族みんなに囲まれて、玄武(げんぶ)は眠ってしまった。
 繋いでいた手はまだあったかいのに、揺すぶっても、強く握ってみても、もう絶対に動かない。
 俺は難しいことはよくわからないけど、それが「死」だって事だけはよく知っていた。
  ――― 死んだ人とは、「お別れ」をしなくちゃいけない。


「ごめんね、巻(まき)。白虎(びゃっこ)もごめんね。あたしも、出来る事ならもっとゆっくりお別れをしたいんだけど」
 白くなるほどぎゅっと唇を噛んでから魔矢(まや)姉がそう言った。魔矢姉は当主だから、死んだ家族を空へ送る大事なお役目があるんだ。夏は、死んでしまった体を長くそのままにはしておけない。
 俺は、藁の柩の傍らにうずくまって動かない巻を、そっとそこからはがして抱っこした。
「…うぅ〜〜〜〜ッ」
 まだ小さな女の子の巻。巻は玄武のたった一人の子どもだ。その巻が、一生懸命声を殺して泣いている。震える体いっぱいに、悲しい、淋しい気持ちが満ちていて、抱いている俺にまで堰を切ったように流れこんでくる。健気にこらえていても、心の中は水溜りができそうなぐらい涙でいっぱいなのが分かった。悲しい、かなしい、淋しい、つらい……
 こんな気持ちを、良く知っている。親父が、伯父さんが、家族が、「死」ぬ、その度に。これだけは慣れてしまうことなんてできないって思っていたのに。
 それなのに、どうしてだろう。
 俺はこれまでのように声をあげて泣く事ができなかった。
「……よしよし、巻は強い子だな。最後までちゃんと、玄武の事見送ってやろうな」
 自分でもびっくりするぐらい静かな声で巻を宥めて。
 そうしているうちに、藁の柩を赤い炎が飲み込んで。
 庭の角から白い煙が吸い込まれるように空へ昇っていく。
  ――― なんだか、夢みたいだなぁ。
 昼間はあんなにうるさかった蝉の声がぴたりと止んで、今は鈴虫の鈴の音が聴こえるだけだ。
 お天道様の最後の光が、金色の目を閉じるみたいにすうっと細くなって、消えていった。





 あの日から、俺はなんだかおかしい。
 腹の辺りにぽっかりと大きな穴が空いているみたいで、何をするのにも力が入らない。
 いつもなら、動いていれば自然に体中に満ちてくる気力が、今はその穴から途切れることなくしゅるしゅると零れ落ちてしまっているような気がする。
 しょうがないから、それが少しでも零れないように縁側で膝を抱えて丸くなっていると、今度はそんなつもりはないのに家族に心配をかけてしまう。
「ひゃあ、白虎様!!どうしたンです大丈夫ですか!?どこか痛いんですか!?」
「……痛くないよ。だいじょぶだよ」
 心配されてしまった事がなんだかとても悲しくて、余計に体を丸める。お手伝いのイツ花は、そんな俺を見てしゅんとしてしまう。それから、えいっと気を取り直したように笑顔になる。
「白虎様、今日の晩御飯のおかずは、白虎様のだぁい好きなアジの干物がありますよ!そ・れ・とォ、ご近所さんからとっても立派な瓜も頂いちゃったんです!井戸で冷たぁく冷やしてありますから、お夕飯のあとに切りま…」
「……夕飯、俺いらないよ」
「何言ってるんですか!いつも4杯も5杯もお代わりなさる方が、ここのところずーっと、ほとんど何にも召し上がってないンですよ!?ちゃんとご飯を食べて、元気を出さないと、白虎様まで……」
「俺まで、何だよ」
 急にムッときて、俺はついイツ花を睨んでしまった。イツ花は、どう続けようか困ったようにもぐもぐして、それから結局、顔をくしゃくしゃにして。
「……病気に、なってしまいますよゥ……」
 イツ花の眼鏡がうっすら曇る。
  ――― ああ、意地悪な事をしてしまった。ごめんな。
 ばつが悪くて、ことさら元気良く跳ね起きてみせる。
「わかった、ちゃんと食べるよ!俺ご飯好きだし!楽しみだなぁ、アジ!!あと、ウリ!!」
 思い切り威勢良くそう言ったら、イツ花は笑ってくれた。
「ハイ!じゃあ、今日は特に張り切って、一所懸命ご用意しますからね!」
 俺に負けないぞと言うみたいにがばっと勢い良く立ち上がって、イツ花は台所のほうへすっとんでいく。なんだかホッとしたけど、少しだけすまない気持ちになる。
 嘘をついてしまった。
 本当に本当のところは、ご飯はあんまり楽しみじゃなかった。
 イツ花の言う通り、確かに俺はあの日からあんまり食べ物を食べていなかった。だから、体の中はほとんどからっぽのはずなのに、ちょっと前なら何より楽しみだったはずのご飯時になっても、腹の虫が啼いたりしない。美味しいはずだと思って口に入れたおかずは、30回きちんと良く噛んでみてもなんの味もしなくて。
 俺は、やっぱりどこか病気になってしまったのかもしれないと思う。きっと、腹に開いている見えない穴のせいなんだ。食べ物が入っていくところが、ぽっかり穴になってしまったから。
  ―――― その日の夕飯は俺の大好物ばかりだったけれど、やっぱりなんの味もしなかった。


 すっかり辺りが暗くなった頃、巻と焔幽が部屋に瓜を持ってきてくれた。俺が夕飯に食べられなかった分だ。焔幽は俺より何ヶ月も年下だけれど、とても利口で気が利く奴だから、きっと心配して色々考えてくれたんだろう。瓜の他に、飴湯もつけてくれていた。「食欲がなくても、これなら喉を通るから」と。
 気遣わしげな顔の二人の前で、俺はなんとか瓜を平らげ、飴湯を飲み干した。相変わらず味はよくわからなかったけど、喉はごくごくと意外なほど音をたてたから、思っていたよりよっぽど渇いていたんだろう。
 巻は、まだ悲しそうだったけど、気丈にもしゃんとして、もうみんなの前で泣いたりはしない。
「巻は本当にしっかりしてるんだなぁ。まだ子どもで、女の子なのに、強い子だよなぁ」
 心底感心しながら玄武に良く似た綺麗な朱色の髪を撫でてやると、巻はふるふると首を振って見せた。
「あたしはちっとも強い子なんかじゃないよ。でも、白虎おじさんがあの時ずっとあたしを慰めてくれてたし、焔幽兄さんや皆がずっとかわりばんこに側にいてくれたから…。それに、あたしが泣くと、父さんはいつもとても困った顔をしていたでしょう?いつまでも泣いてばかりいたら、きっとお空の上で、うんとうんと困ってしまうに違いないんだもの」
 “心配をかけたくないの”と、巻はきゅっと目に力を込めて言った。
 俺はそんな巻を本当に強い、いい子だと思う。
 思わずぎゅーっとしてやると、巻はくすぐったそうに笑って、ぎゅーっとやりかえしてくる。そのあったかさに思わずほっとしていると、巻がぎゅうをやめて、じっとこっちを見上げてきた。
「ん?どーした?」
 思わず首をかしげると、ものすごく真剣な顔つきで巻は言った。
「白虎おじさん、おじさんが泣きたいのなら、今度はきっとあたしが慰めてあげるからね!絶対に我慢なんかしないでね!」
 これ以上ないくらいに必死な様子で、赤い髪の女の子が言う。せいいっぱいに元気づけようとしてくれている。俺の腹に開いている穴が、ぎゅっとひきつれる感じがした。
 俺……俺は、泣きたいんだろうか。悲しんでいるんだろうか。
 よく、わからない。
 だってこんな事は初めてなんだ。今まではずっと、いつだって悲しいときには勝手に涙が出て、勝手に泣き声が喉から飛び出していたのに。
 繋いだままの手が冷えていくのを感じた時も、柩が火に包まれてしまった時も、魔矢姉が白い灰を地面に埋めた時も、涙なんてほんの一滴も出やしなかった。
 ぼんやりと分かっているのは、俺が悲しくて泣いていた時にいつも一緒に居てくれた人が、今はもう居ないってことだけだ。
 だから俺は、巻に「うん」とだけ答えた。巻はそれに、ちょっとだけ不満そうな顔をする。
「大丈夫だよ、俺は我慢なんてしてないんだから。巻が気にする事なんて全然ないんだよ。ありがとな」
 慌ててそう言い足してみたけど、巻はそのまま下を向いてしまった。それまで黙って側に腰掛けていた焔幽がちょっと笑って俺の方を見る。
「白虎兄さん、巻は、兄さんが自分の慰め役になってくれていたせいで、ちゃんと悲しむ暇がなかったんじゃないかって思ってるんだよ。だから、今度は自分が兄さんを慰める番だって」
 俺はちょっぴりぎくっとした。 ――― そんな風に思わせていたなんて。
「……違うよ巻。巻のせいで泣けなかったわけじゃないんだよ」
 玄武の娘にまで心配させてしまうなんて。俺はもうとっくに元服も済ませた立派な大人の男なのに。しょうがないなぁ。
 きまりわるいのを誤魔化すように、巻の頭をわしわしと撫でてみる。
「すぐに元気になるよ。…心配させちゃってごめんな、もっとしっかりしなくちゃな」


 そう約束したからには、もうすぐにでも元気になりたかった。誰にも絶対に心配なんてかけたくない。
 でも、どうやったらいいんだろう。
 玄武が居た頃、俺はどんな風に元気だった?
  ――― そんなの、考えた事も無い。


 *     *     *


――― 白虎、白虎』
  ――― 誰かが俺の事を呼んでいるみたいだ。
 はっとして目を開くと、見慣れた寝床の天上のしみが目に入った。もそもそと起き上がってみると、身体にはしわくちゃになった薄掛けが寝汗でじっとりとはり付いている。
 きょろきょろと、ねぼけた目で見回してみたけれど、部屋の中はぼんやりした月明かりが差し込んでくる以外は真っ暗だ。まだきっと真夜中なんだろう。……誰かに名前を呼ばれたと思ったけど。
「…なんだァ、夢か…」
 もう一度寝よう。起きて損しちゃったぞ、厠に行きたいわけでもないのに。
『白虎、白虎。こら、寝るなって』
 ぱちっと、今度ははっきりしゃっきり目を開いた。夢じゃないぞ。確かに誰かが俺の名を呼んでいる。
『ちょっと出てきてくれないか。俺からは中に入れないんだ』
 聞き覚えのある声だ。でもちょっと信じられない。でも、だけど。
 ごろんと、声のする方へ寝返りを打った。南へ向いた、庭に面している方だ。夏は蒸し蒸しして寝苦しいから、夜でも格子を半分だけ開けている。月の光のせいで、ぼんやりと蒼白く光って見える御簾の向こうに、背の高い影法師が浮かんでいた。
 その形だけで俺にはわかった。いや、声だけでだってわかる。
「玄武っ!?」
 蛙みたいに飛んでいって、影法師の映った御簾を跳ね上げた。
 そこには、見慣れた赤い髪にお天道様みたいな金の目の、玄武が立っていた。
『今晩は。起こして悪かったな。……て、あーあー、こんなに痩せちゃったのか!ホントに世話が焼けるよお前は』
 久しぶりに会った気がするのに、なんだかすごく普通だ。玄武だ玄武だ。なんだかよくわかんないけど、こんなこともあるんだ。
「玄武!お前ユーレイになっちゃったのか!?」
 思いついてそう聞いてみたら、玄武は困ったように苦笑いをした。
『幽霊?いや違…、うーん…そんなものかなぁ…。別に未練があるわけじゃないんだけどなぁ。このままじゃ心配で、おちおち寝ていられなくてさ』
 心配、と言われて、ちょっと悲しくなる。今の俺は、今まで生きてきた中で一番かっこわるいような気がしてたから。
『そんなにしょげるなよ。別に俺はわざわざ怒りに来たわけじゃないんだから』
 …それじゃあますますよくわからない。でも、玄武がそう言って笑っているだけで、じわっと胸のあたりがあったかくなる。
「じゃあ、ただ様子見にきてくれたのか?そんなことができるのか?」
 それなら、ちっとも淋しくないのに。
 でも、この問いには玄武は曖昧な笑顔を浮かべただけだった。
『……白虎、ちょっと散歩に出ようか』
「え?こんな夜中に!?いいのか!?」
 ついつい子どもの時分のような事を言ってしまう。夜の京は危ないから、二人だけで散歩に出るのはいけない決まりだった。
『うん、こんなに良い月の晩だもの。それに、白虎に見せたいものもあるからね』


 庭へ降りると、月の光はいよいよ明るかった。
 玄武は手を差し出して、良いと言うまで決して放してはいけないと言った。大人しく手をつなぐと、なんだか本当に昔に戻ったみたいで嬉しくなる。玄武の手は、暖かいとも冷たいとも感じなくて、そこだけがちょっと昔とは違う。手は確かに繋いでいるはずなのに、何も触っていないような感じだった。
 斜め前を歩いていく玄武は、死ぬ前の、がりがりに痩せた姿ではなくて、月明かりの下でもわかるほど血色がいい。今夜の空をそのまま染めたみたいな濃い紺色の着物を着て、颯々と歩いていく。気になってちょっと下を見てみたけど、足もちゃんと付いていた。
 竜川の屋敷の裏木戸を出て、ひと足ひと足あるくごとに、周りの景色がぼやけていくのに気が付く。霧が出てきたみたいだ。時折町の辻のようなところを曲がるけれど、俺にはもう帰り道なんてわからなかった。きょろきょろしていると、ふいに蛍のような光が横切って行くことがある。つかまえてみようと繋いでないほうの手を伸ばすと、玄武は手を強く引いてとがめる。
『触ったら駄目だよ、あれはとても壊れやすいものだから。きちんと生まれるまで、そっとしておくのがいいんだ』
「…ふうん…」
 じゃああれは、何かの卵なのかな。そんなことを思っているうちに、卵かもしれない光はどんどんふえていく。
 一つ二つが、十、二十になり、百、二百になって。
 こんなにたくさんの蛍、どこの川べりでも見たことがない。あんまり綺麗で、口をあけて見ているうちに、裸足の足が露をつけた草の感触を踏んだ。
 とたんに、強い風が吹いた。あたりを包んでいた霧が目隠しをとるように晴れて、くっきりと濃紺の夜の気配が辺り一面に広がっていく。
 ざざぁ ――― と、たくさんの木の葉の鳴る音がする。音のするほうへ目を向けて、俺は「わぁっ」と歓声をあげた。
『見せたかったのはこれだよ』
 玄武が手を解いて指差してみせたのは、夜空一面に大きな屋根のように枝を広げた一本の大木だった。
 立派な幹は、大人が3人で手をのばしても抱えきれないほどだ。丸い形をした濃い緑の葉っぱが、隙間も無いほどに生え揃って夜空を覆い隠している。そして、その葉の隙間からは、金色に輝く丸い果実が無数に顔をのぞかせていた。
 つやつやと光るその実は、甘酸っぱい、すごくいい匂いだ。胸いっぱいに匂いを吸い込むとくしゃみが出た。
「でっかいなぁぁ…!それにきらきらしててすごく綺麗だ。あの実、どれくらいあるんだ?どんな味がするんだ?」
 目を丸くしたまま聞くと、玄武は悪戯っぽく笑って言った。
『食べてみるかい?』
「いいのか!?」
『いいよ。もともと、そのつもりで散歩に誘ったんだからね』
 二人で並んで木の根元へ近づくと、その大きさにますます目を瞠った。
 すっかり枝と葉でできた天井の下にもぐりこむと、たくさんの木の実をつけているせいで重さにたえられなくなった枝が、地面のすぐそばまで下がってきている場所がいっぱいあるのがわかった。玄武はその一つに手を伸ばして、無造作に実を一つもいで渡してくれた。
『ほら、これなんかきっとすごく甘いよ』
 手の平にころんと載せられた実は、そうして見ると小さくて、木の大きさとは全然吊り合ってない気がする。だけど、間近に嗅ぐとそれは本当にいい匂いで、俺は誘われるようにしてその実に噛り付いた。
「…んん!?」
 じゅわっと、いい匂いのする実の汁が口いっぱいに広がった。けど。
「〜〜〜〜〜〜〜すっっっぴゃい……」
 その味ときたらものすごく酸っぱくて、俺はしばらく口をすぼめたまま何も言えなかった。
『…あれ?そんなに酸っぱかった?ごめんごめん、あははははは』
 あんまり悪いと思ってない顔で、玄武が楽しそうに笑っている。
「ひどいぞ玄武!めちゃくちゃ酸っぱかったんだぞ!!」
 ほっぺたを膨らまして文句を言っても、玄武はまだ笑っているので、そのうちなんだか俺もつられて、思いっきり笑ってしまった。
 そういえば、こんなに笑ったのは随分久しぶりかもしれない。
 ……そういえば、食べ物に味を感じたのもすごく久しぶりのような気がする。
 そう思ったとたん、ぐるぐるぐるぎゅ〜っと思いっきり音をたてて腹の虫が鳴いた。
「わぁ、なんかものすごく腹が減ったぞ!!」
 びっくりしてそう言ったら、玄武がにっこりと笑った。
『そうか、 ――― 良かった』
 嬉しそうにそう答えてから、玄武はもう一つ、近くにあった実をもいで俺にくれる。
『じゃあ、これはお土産。今度はちゃんと良く見てもいだから、絶対に甘いよ』
 実はどれもぴかぴか光っているから、さっきのやつとどのへんが違うのか、俺にはよくわからなかった。
「…お土産なのか?今ここで食ったらいけないの?」
『うん、これはトコヨノクニのカグノミだからね。ウツシヨの人間があまりいちがいに口にしてはおかしくなってしまうんだ』
「床屋の家具の実…?ふーん…なんかよくわかんないけど、わかった」
 俺は、きらきら光る実を大事に袂に仕舞い込んだ。
「ありがとうな、玄武。帰ったら大事に食うよ。あ、巻にもあげてもいいか?こんな綺麗な実を見たら、きっとすごく喜ぶと思うんだ」
 たずねると、玄武は頷いて、それから少しだけ寂しそうな顔をした。なんでそんな顔をするのか、尋ねようと思ったけど、口には出せなかった。
『こんなにたくさんの実があったのに、たったそれだけしかあげられなくてごめんな。……本当はね、この実は俺が、白虎や、家族や、いろんな人たちに、少しずつ時間をかけて渡してあげるはずのものだったんだ』
 俺は首をかしげた。このたくさんの実を、すこしずつ、全部?そんなの、一体どれだけの時間があったらできるんだろう。
『でも、今の俺にはそれはもうできないんだよ。そろそろここに留まっていることもできなくなるし……。だから、その前にどうしてもこの二つをお前にあげたかった。お前が元気をだしてくれるように。お前の明るい心が、皆をまた元気にするように』
「……玄武?」
『白虎、知ってたかい?お前には、人の心を強く明るく、優しくしてくれる力があるんだよ。俺はお前の側に居る間、ずっとそれに助けられていたんだもの。…俺が俺のこの実をお前に渡したように、お前もお前の実を誰かに渡すことができるんだよ』
 急に辺りが明るくなったような気がした。目をしばたくと、夜空の色だったはずの玄武の着物が、少しずつ薄い色になっていくのが見て取れた。
『――ああ、夜明けだ。これで本当にさよならだ、白虎』
 本当にさよなら?また?今度こそ、本当に。
 金の実をつけた大きな木も、玄武も、瞬きをするほんの少しの間にみるみると薄れていく。
 とっさに追いかけようとしたけど、それをからかうように、今度は俺の足元が、大木の麓からどんどん離れだす。
 玄武は、ただ静かにこちらを向いて笑っていた。おだやかに、少しだけまぶしそうに目を細めて。
「……やだよ玄武!もっと一緒に居たいんだ!!」
 思わず腹の底から大声で叫んだら、両目からあったかいものが溢れた。
 玄武がくれた金の実のせいだろうか。腹にぽっかり開いていたはずの穴は埋まっていた。
 だけど俺は。
  ―――― ずっと一緒に居たかったんだよ。


 ずっとずっと。


 *     *     *


『白虎…じさ……、白虎おじさん……』
 御簾の外で、誰かが名前を呼んでる。
 これはもしかして、夢かなぁ……
「もぉうっ、おじさん起きて!!朝ごはんなんだからァ!!!」
「わァ!!」
 耳の側で思いっきり叫ばれて、俺はイナゴみたいに飛び起きた。
 目の前には、赤毛をおさげにした、ちいさな女の子。
「なんだぁ、巻か…」
「なんだなんてひどいよ!部屋の外から何回も呼んだのに、全然返事しないんだもの。……もし、もしかして……白虎おじさんまでこのまま弱って、死んじゃったらって……っあたし」
 ひぃいーっく、と、おもいっきりしゃっくりあげて、巻が泣き出した。俺は慌てて袖で顔を拭いてやりながら、ごめんとか泣くなとか色々言ってなんとか宥めにかからなくちゃならなかった。
「朝ご飯なんだよな!嬉しいなぁ、俺今もんのすごぉく腹が減ってるんだ、だから早く泣き止んで一緒に行こうな。な!」
 その一言に、巻がぴたりと泣き止む。
「ほんとに…?ほんとに、お腹すいてるの?」
「ほんとだよ!…あ、ホラな?」
 そうだそうだといいたげに、腹の虫がうにゅ〜と鳴く。
「……ほんとだ」
 泣き止んだ巻の鼻をぬぐってやってから、あれっと思った。
 袖の中には、右にも左にもなんにも入っていなかった。大事にしまったはずの。
「お土産の実が無い!!」
「…おみやげのみ?」
 巻が不思議そうに首を傾げる。
「うん…金色の、きらきら光る、手のひらにちょこんと乗る位の…」
 そう呟きながら、おれは少しだけがっかりしてしまった。……やっぱり、あれは夢だったのかもしれない。
「もしかして、これのこと?」
 と、がっくりしかけた俺の前に、巻が袂から何かを取り出してみせた。
「あ…!!」
 それは、あのきらきら光る金の実とは違っていた。けれども、その丸い形や、甘酸っぱい良い匂いはそっくりだった。色も、輝きはしないけれど、お天道様のようなぴかぴかした黄色だ。
「おじさんの部屋の、ちょうどあの御簾の前にね、落ちてたのよ?…っていうか、置かれてたって言った方がいいのかなぁ…。不思議でしょう?鳥が運んできてくれたのかなぁ」
 巻が指差した御簾は、丁度、夜中に影法師が立っていた所だ。…俺は、なんとなくそれだけで、夜中に起こった全部のことがホンモノだったんだと信じる事ができた。
「……へへへ、ちょっと齧ってみてもいいかな」
「え、食べちゃうの?大丈夫なの?」
 心配そうな巻から実をうけとって、かぶりつく。
 じゅわっと、いい匂いのする実の汁が口いっぱいに広がった。けど。
「〜〜〜〜〜〜〜すっっっぴゃい……!玄武、嘘ツキだぞ!!」
 思わず叫ぶと、どこかで玄武が笑ってる気がして、なんだかおかしかった。気がついたら、巻もけらけらと笑っている。
「あはははは、白虎おじさん、今すんごい変なカオしてた!あははははっ」
「…へへへへへ」


 
 黄色い実の中には、小さな丸い種が3つ入っていた。焔幽に見せたら、「きっとタチバナかダイダイの種だ」と言う。
 “床屋の家具の実”、なんていうおかしな名前ではないらしいんだけど、俺はそれを庭に蒔いてみた。
 あの時、玄武が見せてくれたような、立派な木にはならなくても構わないと思う。
 何年後、何十年後、俺が居なくなってしまった後で、いつか誰かが悲しいときに、あの実を齧ってみてくれたらいい。
 明日からはこの実の世話をイツ花に任せて、俺はまた鬼退治に行くんだ。




  ――― 橘は 実さへ花さへ その葉さへ  枝(え)に霜降れど いや常葉(とこは)の木 ―――












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