夜明けの子守唄





「ねぇ…帰った方が良いんじゃないの」

 それまで幽界(かくりよ)を覗いているかのように焦点の合わなかった女の瞳が、ふいに自分の目をのぞき込んだ。これだから大人の女は怖い。一定の距離を置いているつもりが、いきなり懐に入り込まれたりする。
「なんで。…良くなかった?」
「そうじゃないけど…何か他のこと考えてるような顔してたから」
 そう言う女の上から身を起こすと、すぐ脇に寝そべって、額に張り付いていた金褐色の髪をかき上げた。寝返りをうってこちらを向いた女の、黒い瞳に映る自分の顔を覗き込む。
――― いつもと変わんねぇじゃん)
 心の中で一人ごちながらも、口元には自然に笑みが浮かぶ。
「つれないなァ根雪(ねゆき)は。そんなにさっさと俺を追ん出したいわけ?」
 拗ねたようにぼやいて見せると、女はあははと開けっぴろげに笑った。
「何言ってるの。女につれないのはあんたのほうでしょ竜川螺玖王(らくおう)。蝶々じゃないんだから、あっちこっち飛び回ってお嬢さん方を引っかけて歩くのはやめにしなさいよ」
 諭すように言われ、螺玖王は軽い調子で裸の肩をすくめた。
「…って言われてもさァ。一つ所に通うなんてマメな事、俺にゃできねぇって。それに、逢うたび姿が変わってたら女のほうが腰を抜かすぜ。いくら竜川の妙な体質が周知の事実っつっても、間近で見る羽目になりゃぁやっぱり……気味が悪ィだろ」
 生まれて四月目で覚えた女遊びは、大抵その度ごとに相手が替わった。何度か逢瀬を重ねるにしても、二月以上付き合いのある女はほとんど居ない。節操のなさは認めるし、自分自身の遊び人な性分から来るものであることも承知の上だが、一方でそれは“外”の人間に対する螺玖王なりの防壁でもあった。
 竜川に生まれたものは、常人の何倍もの速さで成長する。初陣を迎えてからは一月にほぼ一年分歳を取る勘定だ。何も知らない他人から見れば、螺玖王は年の頃十五、六の若者に見えるだろうが、実のところはこの世に生を受けてからまだたったの九ヵ月なのだった。最初はどう見ても幼さの残る少年の顔だったものが、日を追うごとに男の顔に変わっていく様は、常人の目にはやはり異様に映ることだろう。たとえやむにやまれぬ理由があると知っていたとしても、それは変わるものではない。
 とりあえず自分が普通の人間で、女だったと想像して、そんな男といつまでも一緒にいる気にはならないと螺玖王は思う。
「おやまぁ、じゃあこうして妾(あたし)のところに来てくれるのは、他の女よりは心を許してくれてるって事なのかしらね。嬉しいわ」
「そーだな、アンタ変わってるもんな。根雪といると気楽なのは確かなんだよなぁ」
 根雪は、螺玖王の変化にまったく動じない数少ない人間の一人だった。年の頃は二十歳を七つ八つ越したあたりだろうか。さる高貴なお方の妻なのだそうだが、夫の足はこの京のはずれの古びた家には滅多に向くことが無く、本人は別にそれを気にしている風でもない。五月前に螺玖王が訪ねて来た時も、特に拒みもせず、瞳が暁の黄金(こがね)色のようで見事だと、からからと笑ってみせたのだった。その後も月に何度か逢う度に、良い男になって行くのが見られて面白いなどと言う。
 そんな一風変わった気性の根雪を、特に気に入っているのは事実だった。気を使わずにすむし、話ぶりも教養深さを感じさせるわりにはくだけていて、相手をするのが楽しかった。
「生意気ね。その格好のまま追い出すわよ」
「なんだ、どっちにしろ追ん出されるんじゃねぇか。なんなわけ。久しぶりに逢ったってのに」
 女の肩に伸ばしかけた手は、白い両手にやんわりと捕らえられた。女はあの、覗き込むような目になって口をひらいた。
――― 母君の様子が思わしくないんでしょう」
 女の白い手の中で、自分の浅黒い腕が一瞬こわばるのを、制する事ができなかった。
「……なんでそう思う?俺なんか言ったっけ」
「言わなくたって、分かるときには分かるの。なんとなくうわの空だったし、あんたの様子が変わるのは竜川一族に関わる事だけだもの。良く考えれば分かるわ」
 それを聞いて、螺玖王は長い溜息をついた。
「うわ…俺まだまだだなぁ…。どうやったら根雪みたいに何事にも動じずにいられるようになんの」
「莫迦ねぇ。こんな小僧のうちからそんなことに長けてる必要なんて無いのよ」
「な…っ、 ――― 俺の何処が小僧なんだよ」
 今度は本当に心の底から不本意になって顔をしかめると、根雪はにやりと微笑んだ。
「生まれて九ヶ月の何処が小僧じゃないっていうの。赤様と言われないだけましと思いなさいな」
 やり込められて口をぱくぱくさせる螺玖王を、真面目な表情に戻った根雪がそっと睨んだ。
「こんな時にまで女遊びするような奴はもう二度と格子をくぐらせない。慰めてもらいたいなら、やることをきちんとやってきてからにして頂戴。…後悔することになるんだから」
「……分かった」
 反論はできなかった。
 緩慢に起き上がり、傍に脱ぎ捨てたままになっていた小袖を身に着けながら、ぼそりとつぶやく。
「けど、俺に出てけだの病人扱いすんなだの言ったのは更紗(さらさ)のほうだぜ。あいつ自分がトシだってこと思い知らされんのが嫌いなんだよなァ。俺はついててやるっつったのにさ。手持ち無沙汰で家ン中うろうろしてたって莫迦みてぇだから出てきたんだ」
「……そう。なら、帰ったら今度こそ無理矢理にでも張り付いて看病なさいな。少しでも傍にいて、一緒に苦しい思いをしてやらなきゃ駄目よ」
――― わーった。」
 軽く返事をして、黙々と着物を着る螺玖王を見上げながら、根雪は少しだけ寂しそうな顔をした。
「また逢えるかしらね、螺玖王」
「さァどうかな…。次の討伐終わっても無事だったら逢いに来るよ」
 二年に満たない短い寿命すら、全うできるかは分からない。だから、確かな約束というものも生まれてこのかたしたことがなかった。守れるかどうか分からない取り決めをして縛ったり縛られたりするくらいならば、最初からそんなものは無いほうが良い。
 狩衣を身に着け終わり、下ろしていた髪を後ろで束ねて紐でくくり始める。いつもならば一瞬の作業のはずだが、何故か今日に限ってうまく結べず何度かやり直す羽目になった。普段なら気にも留めないことに、この時はやけに苛立った。
「貸して。やってあげる」
 女が手を伸ばしてきたので、素直に紐を手渡した。
――― ありがとな、根雪……」
 ぽつりと呟くと、背後で根雪が静かに笑う気配がした。
「いいのよ。妾を逃げ場にしてくれるのも、本当はね、嬉しいんだから」
 女の手はくるくると器用に動いて、金色の糸束をあっという間にくくり終えた。 



 女の屋敷を後にした螺玖王は、月の位置から今が寅の刻であろうと見当をつけて歩き出した。夜目が利くので、明かりは特に必要がないのがこういう時には便利だ。小道から六条大路へ出て、辰の方角にある屋敷への道を足早にたどる。
 弥生の末の夜道はわずかに湿気を孕んでおり、辺りは薄い靄に煙っていた。
 軽くくしゃみをしたとたん、まだ冷たさの残る早春の夜気が狩衣の僅かな隙から入り込み、思わず身を震わせる。
「おおやだやだ!せっかく温まったと思ったらこれだもんな。さっさと帰ろ」
 言い聞かせるようにわざと大きな声を出したが、同時に己の身の内の声は明瞭に自身に問いかけていた。
(帰って、それから?)
 自分にできることなど何も無いのは分かりきっていた。
 家には、病みついた彼の母 ―― 更紗がいる。
 母と言っても、更紗はいつまでたっても陽気で無邪気で遊び好きなお姫様体質だったから、幼い頃から親らしいことをしてもらった記憶も、母親として慕った記憶も無い。最近ではむしろ手のかかる妹か娘といった感じだった。だが、この親子らしくない関係に不満を持ったことはなかったし、いつまでも華やかな娘でありつづける更紗を螺玖王は割合気に入っていた。
 いつまでも、萎れることのない花なのだと心のどこかで思っていた。
 そんなものがあるはずもないのに。
――― 逃げ場…か」
 無意識に先ほどの根雪の言葉を反芻する。
  ――― 今までにも、さんざん家人の死を見てきた。
 どんなに強い者も、どんなに威勢の良い者も、二年目の終わりが近づけば、弱り、痩せ衰えて死んでいった。そのどれもが辛く、やりきれないものではあったが、一方で仕方のない事だと割り切っている自分がいた。いちいち落ち込んでいる暇など無いと。
 朱点童子によってかけられた短命の呪い。今までに一度だってこの呪いから逃れた者はいなかったのだから、これからも朱点を倒さない限りはただ一つの例外も有りはしない。
(分かりきってた事じゃねぇか)
 それなのに、更紗が死ぬことだけが信じられないなんて。肉親を亡くすことを恐れている自分がいるなんて。
 こんな手前勝手な考え方が自分にあることに呆れてしまう。まるでガキだ。
 更紗に追い払われて仕方なく家を出たのは嘘ではなかったが、病み衰え、死に近づいて行く姿を見ていたくないという思いも少なからずあったのだ。 
  ――― それで、女の所へ逃げ込んだ。
「だっせぇ…」
 根雪はそれを察した。そしておそらくは、自分を追い払った更紗もまた、気付いていたからこそそうしたのではないのだろうか。
「だっせぇ…!」
 俺にできる事は何だ。
 傍にいて、苦しみを分かち合う…たったそれだけか。
 どうせ死ぬのに。
 消えちまうのに。
 何をしたって無駄じゃねぇか。
 だが、心とは裏腹に、歩みはいつしか大股になっていた。
 焦りにも似た感情が湧き上がって、無性に更紗の顔が見たくなっていた。
 付き添いなどいらない、年寄り扱いするな、と、イツ花や一族のものが看病しようとするたびに聞き分けなくごねてはいるが、更紗はあれで寂しがりだから、誰かが傍にいてやらなくてはならない。誰を遠ざけても、実の息子にぐらいは弱音を吐かせてやるべきだったのだ。
 急いて次の辻を曲がろうとしたその時。
『見よ、人じゃ人じゃ』
 辻の向こうから、黒く蠢くものがぞろぞろと這い出してきた。
『若い旨そうな男じゃないかえ』
『鬼が狩する刻限に一人歩きとは豪胆よのう』
『それとも莫迦か。ただの狂いか』
『どちらにしろ旨そうじゃ』
 それは、紅こべ大将に引き連れられた鬼の一群だった。古びた車の化け物や餓鬼どもが、上品(じょうぼん)の獲物に舌なめずりする。
 螺玖王は軽く舌打ちした。
「鬼どもの夜行(やぎょう)か…面倒臭ぇな…」
 竜川一族や他の討伐隊がいくら狩っても、鬼は一向に減る気配を見せず、夜には巣窟から這い出してきて都の辻を徘徊する。生きた人間を見つけようものなら、嬲り殺して喰い散らす。それゆえに、陽が落ちている間に出歩く者はほとんどなく、あるとしてもしっかりと武装した強者か、護衛を雇える程度に富める者のみなのだった。
 螺玖王のように一人で、しかも何の武器も持たずに出歩く者はそうはいない。
「なぁ、お前ら今日だけは見逃してやるから、ちょーっとそこどいてくんねぇかな。俺急いでんだよ」
 気さくとも言える調子で螺玖王は鬼の群れに声をかけた。とたんに鬼どもは耳障りな音を立てて笑い出した。
『ひゃひゃひゃひゃ…見逃してやるなどと云うたぞ。やはり狂いか』
『小僧が丸腰で何をぬかす』
 鬼達はじりじりと螺玖王の周りをとり囲み、笑いながらその輪を狭め始めた。
 そのあからさまに侮った態度に、螺玖王はふと額に手をやった。
「あぁ…そうか見えねぇのか」
 いつもなら額にはっきりと見える呪いの印は、落ちかかった前髪に隠されていた。それは、今では雑魚鬼にとって明らかに恐怖の対象だった。しかし鬼達は、多勢をかさに着て気が大きくなっているのか、螺玖王が鬼狩りの一族・竜川の者と気付かずにいるのだ。
(…こんなことぐらいで分からなくなるとはねぇ)
 逸って熱を持っていた心がスッと冷えた。
『さぁ恐怖に顔を引きつらせてみよ。その頭をばりばりと喰ろうてやるぞ』
『儂は腕じゃ』
『儂は内腑をもらうぞ。ああァ柔くて旨そうじゃ』
 紅こべ大将が甲高い声を上げた瞬間、鬼達は上から横から一斉に飛び掛ってきた。
 螺玖王はその様子を、半ば弛緩した立ち姿のまま泰然と見やった。
「…莫ァ迦。俺は今機嫌が悪ィんだよ」
 その唇が一瞬皮肉な形に歪められた。
 身内や女には一度も見せたことのない、氷刃のような笑みがそこに在った。



 家の門をくぐったのは、それから半刻もたたぬうちだった。
 螺玖王は、屋敷内の静けさに違和感を覚え、足を速めた。
 夜明け前の屋敷が静まり返っているのはいつもなら当然のことだが、今は更紗の様子を看るために誰かしらは起きているはずだ。その、起きている人の気配がしない。
――― まさかな)
 嫌な予感を振り切るようにして階を上り、更紗の寝ている部屋へ向かおうとした時、ふいに後ろから声がかかった。
「螺ー玖、お帰り」
「うおっ」
 驚いて振り返ると、そこには浅葱色の髪を肩に垂らした女が、柱にもたれかかるようにして立っていた。見慣れた深い緑色の瞳が、いたずらに成功したといわんばかり嬉しげに細められる。間違いなく彼の母、更紗だった。
「さ…更紗!?脅かすなよ……つーかなんで起きてんだお前!病人は大人しく寝てろっつったろ!ほかの奴らはどうしたんだ。イツ花は!?」
 安堵半分、腹立たしさ半分にしかりつけると、更紗は不満そうに口を尖らせた。
「何よォ…。お帰りって言ってあげたのに。いきなり怒んなくたっていいじゃない」
「良かねェよ。お前自分がどういう状態にあるのか分かってんのか?ふらふら床から這い出してる場合じゃねぇんだよ」
「…で?心配して帰ってきてくれたんだ。かぁっわいい〜」
 更紗は反省の色などまったく見せずに笑い転げる。
 からかい調子にむっとしたが、これでまた放っぽり出しておいては元の木阿弥なので幾分こちらが大人になることにする。
「そーだよ。心配だから戻ったんだ。だから頼むから寝てくれ」
 めずらしく殊勝に出た息子をにこにこしながら見上げると、更紗は柱の影からごとりと何かを取り出し、差し出した。
「弾いて」
「…は?」
 それは細工も見事な四弦の琵琶だった。だいぶ前に更紗がとある貴族を引っかけて貢がせたというなんともいえない来歴をもつ代物である。
 螺玖王は思わず額に手をやった。
「おーまーえーはー、人が下手に出てりゃ…。駄目駄目。だいたいこんなん弾いたら寝てる奴ら起こしちまうだろうが」
「ああ…、それならへーき…。“くらら”しといたから」
「ああ!?」
「だからぁ…、“くらら”かけたの。皆に」
 今度こそ本当に力が抜けて、螺玖王はその場に座り込んだ。
 信じられない。
「バッカ…何考えてんだ…。やけに家ン中静かなのはそれでか!看病してくれる奴ら皆眠らせて、もし万が一その間になんかあったらどーすんだ。だいたい術使うこと自体やべぇだろうが」
「だーって…みんな心配しすぎなんだもん。ちょっと身体を起こそうものなら、手を貸してやるだの厚着しろだの無理するなだの…すんごく窮屈なんだもんそういうの…。自分がお婆ちゃんになったような気がして嫌だし、ずっと寝てるのだってつまんないしさ。…だから、たまにはお月さんでも見ながら螺玖の琵琶が聴きたいなって思ったの。ねぇ、弾いてよー」
「…何言ってんだ。自分で追い出したくせに」
――― でも、戻ってきてくれたじゃない」
 有無を言わせない笑顔のまま、更紗はすぐ隣に座り、琵琶を差し出す。
 螺玖王は溜息をつき、しぶしぶそれを受け取った。
「わーった……けど調子悪くなったらすぐ言えよ」
「うん、へーき…。今日はけっこう楽なんだ…」



 螺玖王は軽く調弦を終えると、高欄(こうらん)に背を預けておもむろに琵琶をかき鳴らし始めた。
 読み書きにはまったく興味の無い螺玖王だったが、代わりに芸事には一通り手を出して、どれもそこそこ器用にこなす事ができるようになっていた。特に琵琶は、耳の肥えた者を唸らせるほどの腕前である。
 高く低く空気を震わせる音色は、夜明け前の薄暗い庭にしみわたるように響いた。
「琵琶ってさぁ…なんか哀しい音がするよねぇ……」
 じっと隣で耳をかたむけていた更紗が、ふいにこちらに寄りかかってきたので、いくつか音をはずしてしまう。
「おい…、これじゃ上手く弾けないだろ」
「いいじゃん、聴き手の好きにさせてよね」
 左腕に感じる更紗の身体は、浮いた骨の当たったところが痛いほど痩せていて、そのうえ恐ろしく軽かった。抱えた琵琶のほうが遥かに重いような気さえする。
「……更紗……、お前胸減ったな」
 ぽつりとつぶやくと、膝を叩かれた。
「しっつれーねぇ、あばらも減ったんだから出っ張り具合はおんなじよぉ」
「はは…、洒落になんねぇよ」
 掻き消えそうに儚い重みを、壊さないようにそっとばちを動かし続ける。更紗は螺玖王の狩衣の袖に顔をうずめて息を吸い込んだ。
「鬼の…血の匂いがするね…。さっき大路の辺りで凰招来使ったのって螺玖…?」
「さァね」
「……それと、女の匂い……」
 少々ぎくりとしつつも、今更な話なので黙っていると、更紗は少しだけ袖から顔を上げて螺玖王を見上げた。
「ねぇ螺玖、螺玖がそうなっちゃったのは、あたしのせい…?あたしが、いいかげんな母親だったからかな」
 その声が僅かに震えているような気がして、螺玖王は更紗を見た。だが、更紗の表情はいつもと同じにけろりとしている。目だけは何かを考えている風にも見えたが。逡巡した結果、いつも通り軽く受け流した。
「遊び人な親だから、遊び人な息子になっちまったのかって?さぁどうかな…。どっちにしても女好きは天性のもんだと思うぜ」
 答えると、更紗はかすかに首を振った。
「違うよ。螺玖は、ほんとは何にも執着しないから…何にも自分を残そうとしないから…だからあたし、心配なの。螺玖が幸せでいるのかどうか、心配なんだよ」
「……」
 何かを言おうと思ったが、言葉が紡げなかった。弦を押さえる指が強張って、短く硬い不協和音がはじき出されて散らばった。
 何故、今更そんな。
 何故、更紗がそれを言うのだろう。
 知っているのだろう。
 何かを残すことに感じる虚しさ、何かに真剣に心をやることの無意味さ。
 最後には消えてしまうなら、最初から何も手に入れようなんて思わなければいい。だから。
『女につれないのはあんたのほうでしょ』
 根雪の言葉と、少しだけ寂しげな顔が頭に浮かんだ。
「螺玖、あたしね…早く子供が欲しかったの」
 更紗は唐突にそう言って、照れたように笑った。
「あたし、生まれた時にはもう父さんいなくて…、だからはやく家族が欲しいって思ってた。一族の皆はもちろん家族だけど…、もっと近いところで繋がった人に、傍にいて欲しかったんだ…。だからね、螺玖が生まれてくれて幸せだったの。幸せをくれた螺玖にも、ちゃんと幸せになって欲しいの…勝手だけど、本当にそう思ってるんだ…」
 どこか物悲しい琵琶の調べに、更紗のか細く高い声が、歌うように、夢を見るように重なって、螺玖王の耳に届いた。
 何かを答えるべきなのか。そう思いながらも、喉の奥になにか熱いものがわだかまっているようで声にはならず、結局螺玖王は無言で琵琶を弾き続けた。
「ねぇ螺玖、あたしの言ってること…わかるかな。…大事なものをいっぱい、いっぱい作ってもいいんだよ。大事なものがいっぱいあるほど、幸せって思うこともいっぱいになるんだから…」
 更紗の声が、少しずつささやくように小さくなっていくのが、左腕に感じられた。
――― ああ」
 のどの奥の熱に、せいいっぱい抵抗して、螺玖王はやっと声を出した。   
「心配すんな更紗。…俺めいっぱい幸せ満喫して死ぬからさ。…約束する…。お前が悔しがるくらい、幸せんなるから……」
 それだけ言って、ゆっくりと更紗を見た。更紗の深い緑色の瞳には、少し不安げな表情をした、少年の顔が映っていた。更紗は、その目を細めてやわらかく微笑んだ。
  ――― それは、生まれて初めて見る、母親の貌(かお)だった。
「えへへ…、こんなイイ息子ができるんなら……今度生まれてきた時には、自分のお腹で子供を産んでみたいな……」



 辺りを包んでいた闇がしだいしだいに薄れてゆき、東の空が白々と明け始めた。
 琵琶の音はいつの間にか止んでおり、代わりに夜明けを告げる鳥達の声がそこここに響いている。
 夜露に濡れた高欄にもたれたまま、螺玖王は傍らに琵琶を置いて、今は小さな母を腕に抱いていた。
 抱かれた更紗は、何か良い夢でも見ているかのように笑みを浮かべて目を閉じている。
「お休み…オフクロ…」
 更紗の額に寄せた唇から、静かに言葉が零れ落ちた。
 そのまま、螺玖王は腕に抱いた母を、ゆっくりと揺らした。
 幼子をあやすように優しく。
 いつまでもいつまでも揺らし続けた。





   いろは歌解釈
   花の色は鮮やかに映えるけれど、いずれは散ってしまう
   同じように、私の生きているこの世の誰が変わらないことがあろうか
   様々な事の起こりうるこの世を一日生きてゆくのに
   儚い夢を見るようなことはするまい 酔っているわけでもないのに













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