春傍(しゅんぼう)





 部屋の片隅、彼がそれに目を留めたのは実に三箇月ぶりの事だった。
 二、三日前まで雑然と書物が積み上げられていた部屋はすっかり片付き、これほど広かったかと目を疑うほどだ。と言っても散らかっていたわけではなく、単に物が多かったというだけの話なのだが。
 そうして片付けた本の山の後ろ、普段は使わない長持の影に、埃を被ってそれはあった。
「ああ…そう言えば、まだ勝負はついていなかったのだったな…」
 “それ”は、碁盤だった。上には対局途中のまま時を止めてしまった碁石が整然と並んでいる。彼は少し笑むと、屈んで碁盤に息を吹きかけた。途端にふわりと舞い上がった埃のせいで咳き込み、そしてふと、前にもこんな事があった気がして思考をめぐらせた。
  ―――― そう、確かあれは ――――





 薄暗い蔵の中。
 天井近くに小さく開いた窓からかろうじて差し込んでくる光の帯が、そこだけ夜霧のように漂う埃を照らし出していた。
 彼はそこに使い古した武器を仕舞いに来たのだった。ひと月しか共に過ごせなかった父から譲り受けた「象牙の槍」。だが今の彼にはさらに強力な穂を備えた「片鎌八角槍」がある。古い武器は売りに出してしまうのが常だったが、彼はそれを手放すのが名残惜しかった。
 槍の穂にしっかりと布を巻いて、そっと蔵の隅に立てかける。そこでふと、脇にある棚に目をやった。
 棚には、なにか見慣れぬ、小さな文机のごときものがひっそりと安置されていた。
「なんだ…これ」
 小さな文机はしかし、物書きに使うにはあまりに小さく、かっきりと真四角で硯箱を置く場所すらない。良く見ると上面には、厚く積もった埃の下に何か無数に線が引かれているようだった。気になって勢い良く息を吹きかける。もう、とすさまじい量の埃が舞い上がって、彼は咳き込んだ。吹き飛んだ埃の下から現れたのは、精緻に引かれた無数の升目。頑固に張り付いている埃の塊を払うと、升目の引かれた上面はかすかに艶を持って美しい。
「不思議だ」
 思わぬ宝物の発見に胸は躍り、彼はそれを父が自分に示してくれたように感じながら自室に持って帰ったのだった。


「さぁ、何かしら。机にしてはちょっと使いづらいみたいよね」
「膳なんじゃないかな。へんな模様だけど、よくみりゃ綺麗だし」
「イツ花にはさっぱり…。うーん…多分、初代当主様のお父上がお持ちだった物だと思うんですけど」
 家人に聞いても、その『文机のようなもの』の正体はようとして知れず、彼は少しだけ落胆した。判るのは、これが机や膳などではないだろう事、一族が朱点童子の呪いを受けるよりももっと以前の先祖の家に伝わっていた物だという事だけなのだった。
 その文机の正体が判るのは、それから四箇月後、朱点童子討伐隊選考の御前試合を終えた後の事だった。


「ハッハッハ、狛(こま)殿、それは碁盤だよ」
 狛(こま)、というのは彼のあだ名だ。神社の入り口に構えている狛犬に似ているというのがその由縁だった。
 三月に行われる御前試合の後は、上位まで勝ち上がった強者たちを労うため、内裏にて無礼講の宴が催される。毎回筆頭討伐隊に選ばれるようになっていた竜川家は、宴の主賓だった。
 その席、すっかり出来上がった一団の座に引き止められ、彼はふと尋ねたのだ。上面に升目の引かれた、文机の如き物はなんであろうか、と。
「そうよ、碁盤よなぁ。なんと狛殿は囲碁をご存知なかったか」
「囲碁…?」
 首を傾げた彼の背を酔いにまかせてバンと叩きながら一人が言う。
「ああそうとも。あれはなかなか奥の深い遊びじゃ。面白いぞぉ」
「そうよなぁ。なんなら狛殿、儂が教えて進ぜるぞ。筆頭討伐隊の強者に囲碁を教えた師匠となれば、これは噂の的じゃもの」
「なに、お主だけにそんな良い目を見させてなるものか。狛殿、今度私の家にも来てくだされ。言っておくが私は強いですぞ」
「どうじゃ狛殿。いかが致す」
 この申し出に彼が喜んだのは言うまでもない。是非ご指南頂きたいと生真面目を全身に纏って頭を下げたのだった。
 碁盤があったのなら碁石もあるはずだと教えられ、言われたとおりにもう一度蔵を探すと、碁盤の置かれていたすぐ側に黒石と白石がそれぞれ入った器も見つかった。
 彼は頻繁に男達に教えを受け、いつしか彼らと互角に打てるほど腕を上げた。
 そして、月日は流れた ――――





「父上、何をぼんやりしておられるのです。薬湯をお持ちしましたよ」
 抑揚は無いが良く通る声に、彼 ―― 巌幽(がんゆう)は顔を上げた。
 振り返ると、盆にいわく言いがたいにおいを放つ器を乗せて、息子が立っていた。
「あ…ああ、賢幽(けんゆう)か。わざわざ有り難いが、その……」
 薬は必要ない、と言うつもりだった。彼はその薬が大の苦手なのである。しかし賢幽は皆まで言わせなかった。淡々とした表情の、眉だけをわずかに逆立てて父を見る。
「必要ないはずはないでしょう。この前飲まずにいたら盛大に吐血したではないですか。掃除する私やイツ花の身になって頂きたいものです」
 ( ――― まだ怒っていたのか…)
 巌幽は息子の藍色の目がよこす無言の圧力に溜息をついた。
 巌幽は病んでいる。鍛え上げられ鋼のようだった筋肉は削げ落ち、強靭だったはずの四肢はゆっくりと残酷に萎えていった。調子の悪い時には血を吐くことも増えた。それが、朱点童子が彼ら一族に与えた呪い。竜川に生まれたものは笑えるほどあっけなく、二歳にも満たずにこの世を去る。昨年の師走、怨敵を討ち取り損ねた彼らにはこの呪いを退けることはできなかったのだ。そしてこれからも、一体どれだけの時間と努力を費やせば呪いを打ち砕く事ができるのか、そもそも彼らにあの魔力甚大な子供を倒す事ができるのか、巌幽には見当もつかなかった。
 ただ、自分の命がもういくらもないことだけがはっきりと判っていた。
「飲んだところで、どうにもなるまい。薬だとて安くはないのだ。俺なんぞのために使うよりも、良い武具を揃えるのに使ったほうが何倍も…」
「女々しい言い訳は聞きません」
 ぴしゃりと遮られ、それでもなお抵抗しようとしたが、そうする前に、賢幽がいきなり障子のむこうに声をかけた。
「待たせてすみません、いいですよ。どうやら具合はすこぶるよさそうですから」
「はぁい!」
 元気の良い返事が聞こえ、障子の向こうから出てきたのは現当主・紅牙(こうが)の二人の娘、銀牙(ぎんが)と沙羅(しゃら)だった。
「巌幽様、お加減はいかがですか」
 快活な笑みを浮かべて姉の銀牙が尋ねるので、巌幽は笑って答えた。
「ああ、良いよ。有り難う。お前たちも元気そうだな」
「はい、そりゃもう。…ほら、沙羅ってば早く渡しなよ」
 銀牙は、彼女の後ろで恥ずかしそうにしている沙羅に声をかけた。沙羅は今よりももっと幼い頃、巌幽のいかつい顔におびえて泣いたことがあり、未だに彼に人見知りをするのだ。その沙羅が、ぱっと顔を上げてから小走りに寄ってきて、せいいっぱい背伸びをして巌幽に何かを差し出した。
「これ、おじさまにあげます!」
 それは、ほのかな香りを撒く白梅の小枝だった。
「あの、お庭の梅がとっても綺麗に咲いてたから。見たらきっとおじさまも元気になると思って」
 今は弥生。このところの暖かな陽気につられて、庭の花もほころび始めていることだろう。だが近頃では一日中寝込むことも多くなった巌幽には、なかなかそれを目にする機会がなかった。
 巌幽は、自分の指先で摘めるような小さな枝と、小さな少女を見比べて破顔する。その、優しい心遣いにおおいに心を打たれた。
「有り難う沙羅。母屋の梅は、それは見事だろうな」
 優しく言われて、沙羅も嬉しそうな笑顔になった。
「はい、とっても!」
「……さぁ、それでは」
 それまで黙ってそれを見守っていた賢幽が割り込むように口を開いた。
「父上、もっと元気になるためにも、こちらの薬湯を飲んでください」
 そう言って、ずいと巌幽の眼前に器を差し出す。
「う……そ、それは……」
 はっとして、巌幽は嗅いだだけで吐き気をもよおす薬湯と、すぐ側に立った二人の少女を見比べた。少女たちは心配そうに息を詰めて巌幽の一挙手一動を見守っている様子だった。けなげに見つめてくる子供らの前で、薬を嫌がる事など巌幽にはできない。彼は一瞬情けない顔をしたが、すぐに息を吐き、気合で一気に器を干した。
 それを見届けて、賢幽は少女たちを振り向いた。
「銀牙、沙羅、どうも有り難うございます」
「え?なんで?」
 首を傾げる銀牙と沙羅に、ほんのかすかに表情を緩めて賢幽は言う。
「貴方たちが見舞ってくれたおかげで、父は元気になるでしょうから」
 

「よかった」と嬉しげに言って娘たちが去ったあとで、巌幽は息子を睨みつけた。
「賢幽おまえ…小賢しいぞ」
「何の事です」
 相変わらず淡々と返してくる賢幽に、巌幽は“もういい”、と首を振った。
「父上、文句をおっしゃるくらいならばちゃんと自分から飲んで下さらなくては。それに、あの子たちが父上に梅を見せたいと言ったのは私が唆したからと言うわけではありません。誤解なさらぬよう」
「わかったわかった」
 苦笑しながら梅の小枝を懐に挿し、それからふと思い出して賢幽を見る。
「そうだ、賢幽。三箇月ぶりになってしまったがこれの続きをやらんか。まだ勝負はついてなかったじゃないか」
 指し示した先には、先ほどの碁盤がある。賢幽はそれを見て、こっくりとうなずく。
 忘れていた碁盤の上の対局は、巌幽と息子のものだった。師走の始め、巌幽が大江山へ討伐に出る直前の夜でその時を止めたまま、碁盤は新たな一手を部屋の片隅でずっと待ち続けていたのだった。
 

 賢幽は囲碁の上手である。
 巌幽は、囲碁を教えられた後すぐにめきめきと上達し、彼の碁の師匠らは彼に負けることのほうが多くなった。彼は囲碁が楽しかったので、家族にもそれを教えようとした。しかし、反応を示したのは彼の母親違いの妹比鼓能だけ。それでも興味を持ってくれたのが嬉しくてさらに熱心に教えると、比鼓能はわずかに半月で巌幽を負かすようになった。その比鼓能をも負かすのが、この賢幽なのだ。彼は半月どころか教えて3日目で巌幽を負かし、父の舌を巻かせた。
 賢幽は黙々と日当たりの良い簀子(すのこ)に碁盤や円座(わろうだ)を運び、さっさと座におさまる。
 その様子を見て、巌幽は悪いことをしたな、とわずかに苦笑した。息子はこの対局の続きを、口には出さなかったが待っていたのだと気付いたからだった。やれやれ、と心の中でひとりごちる。賢幽は殆ど感情を表に出さない。うんと幼い頃からそうだったから、そういう性分なのだろうが、それで自分の望むものを得られるだろうかと心配になってしまう。
 賢幽の顔は、狛犬に似ていると言われていた父には全く似ずに、整いすぎなほどに端整だった。母神である野分ノ前に良く似ている、と巌幽は思っている。そして、巌幽の義妹である比鼓能にも。怜悧な顔は、表情に乏しければさらに淡々として見え、余計に賢幽の心情は読み難いのだった。
「父上?何か」
 じっと自分を見ている父に気付き、賢幽は怪訝そうに言った。
「あ、ああ…いや、すまん。さて、どちらの手で終わりになったのだったか」
「父上です。私はここを取られました」
 即答に、巌幽はうなずく。
「ああ、そうだったそうだった。珍しく勝ってるんだったな」
 思い出して少し嬉しくなる。この対局は、珍しく巌幽が粘って、彼の有利に進んでいたのだった。
「まだわかりませんよ」
 賢幽は言いながら黒石を置く。巌幽にはその石が何を狙ってのものだかまったく解らなかった。腕組みをしてじっと盤上を見つめ、口を開く。
「なんだ、これは…。どういう展開を考えてるんだお前は」
「お教えするわけがないでしょう」
 しらじらと言って、賢幽は続きを目で促す。巌幽はムゥ、と唸る。巌幽が読めない布石は、いつも最後の最後に生きて僅差で必ず彼を負かすのだ。なんとか気づいてやろうと熟考に熟考を重ねたが、読めなかった。
「わからんなぁ…」
「私も父上の出方次第では考えを変えなければなりませんが。父上は正直な方ですから、きっと…」
 そこまで言って賢幽は碁盤を見る。巌幽は顔をしかめた。
「お前、暗に俺を単純だと言っているな」
「明快なご気性なのは良い事です」
 しれっと言ってのける息子を軽く睨んでから、巌幽はどうだとばかりに高い音を鳴らして白石を置いた。


 勝負は、賢幽の勝ちで終わった。
 例の布石が、死んだと思っていた賢幽の石をいつの間にか生かしてしまい、どう見てもこれ以上巌幽の地を広げる方法は見つからない。
「どうですか」
「……無い」
 憮然と渋い声を出した巌幽に、賢幽は笑みをたたえた目を向けた。それを見て、巌幽もまた笑った。
「賢幽、碁は面白いか」
「はい」
 すぐに答える息子を見て、彼は満足そうな笑みを浮かべ、痩せてしまった自分の手のひらを見た。
「そうか……。では俺は、槍を持って戦う以外の事も、お前に教えてやることができたんだな……」
――― はい」
 それを聞いて、巌幽は少しだけ安堵した。
 呪いを解き、戦う事をしなくても生きてゆける道を示してやる事ができなかった。それでは彼が息子に伝えたものは、槍を構え、鬼を貫き、その骸を山と積む技のみだったということになってしまうと、ずっと心の奥底で気に病んでいたのだ。それは、あまりにも切ない事だと。
 だが、彼が蔵の中から見つけ出したあの正体不明の文机が、少しでも息子の人生を豊かにしたのだったら。その出会いに感謝したいと、そう思う。
 巌幽は、身体の中から何かの塊を吐き出すようにして息をつき、笑って賢幽の目を見る。
「そして、な。この俺に囲碁を教えてくれたのは、この京に、竜川の塀の外に住む、今は俺たちとは少し縁遠くなってしまった人間達だったのだ」
 賢幽はじっとそれを聞いて、それからわずかに眉根を寄せた。怒っているのか、悲しんでいるのか、困っているのか、一見して判らない独特の表情。
「……父上は、人が良すぎるのです」
 そう言った言葉はやはり淡々として、責めているのか共感を示しているのか読みがたい。
 それでも巌幽は、息子が彼の言わんとしている事を理解してくれたのだと感じた。
 朱点の討伐に失敗し、華やかな場から一気に失墜した竜川一族を、忌むように離れていった彼ら。手のひらを返したようなその態度に巌幽とて少なからず失望し、落胆もした。それでも、たとえ理解されなくても、彼らを自分から隔ててしまう事だけはしたくないのだ。同じものを楽しみ、同じ事に笑いあうことができるのだという事を忘れたくないと思う。
 それは、自分がもうこの世に長く残らないという、一種の気楽さから来るものなのかもしれなかったが。
「なぁ賢幽、俺は無責任だろうか……」
 巌幽は庇の向こうの空に目をむけながらつぶやいた。
 賢幽はそれには答えずゆっくりと部屋を見渡してぽつりと言う。
「部屋、すっかり片付いてしまいましたね」
 その言葉に引き戻されるようにして自分も部屋を見渡し、巌幽は口元に少し寂しげな笑みを上らせる。
――― 賢幽、俺が居なくなるのは寂しいか」
 賢幽は答えず、ただこっくりとうなずいた。
「……そうか……すまないなぁ……」


 上品な浅葱色に染め抜かれた空には、綿を散らしたような雲がのどかに浮いている。懐に挿した梅の小枝から、かすかな芳香が立ち昇ってきてすがすがしかった。巌幽は目を閉じてしばらくそれを楽しむ。
 庭のどこか、すぐ近くの木の枝で、ふいに鶯がさえずった。
「ああ、もう春なんだな……」
 巌幽はそう言って目を開くと、傍らにいる、もう十分大きくなった息子の頭を久しぶりに撫でた。












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