二、
紅牙の呼び出しに応じるため、比鼓能は自室から廊下へ出た。
自屋は屋敷の西の離れであるから、母屋の奥にある当主の居室に行くには渡り廊下を使う。二月の末の夜気はしんと冷えきっており、比鼓能は思わず身震いをした。
渡り廊下の右手には若い白梅が植えてあって、月明かりに見れば、わずかに膨らみかけた蕾がいくつもついている。もう春が近いのだ。
「紅牙姉さま、比鼓能参りました」
当主の部屋の前までやってきて声をかける。
「お入り」
部屋にはすでに巌幽とイツ花が紅牙の両脇にひかえていた。中央には火桶が据えてあり、部屋の中は格段に暖かい。
「ご免なさい、お待たせしてしまったみたい」
「いいよ。座ってくれ」
比鼓能が座に着くと、それまで脇息にもたれていた紅牙は身を起こして居ずまいを正した。
「イツ花、あれを比鼓能に」
「はぁい。どうぞご覧下さい」
イツ花が比鼓能の前に差し出したのは細長い桐箱で、中には古びた巻物が入っていた。取り出して開くと、そこに書かれているのは天界にいる神々の名前なのだった。
「大体察しはついていると思うが―――」
「―――ええ、交神の儀を行うんですね。わたしが」
比鼓能がすぐに応じると、紅牙は頷いて言った。
「あんた達が討伐に行っている間に、巌幽殿と今後について話していた。あんたの素質は相当なものだし、その技を継ぐ次の世代を育ててもらわなきゃならない。弥生の御前試合を蹴るのはちょいと痛いんだが、皆の気持ちを切り替えるためにも、今が一番いい時期だと思うんだ」
「わかっています。―――いつかは自分の番が来るのだとは思っていましたから。わたしに子供ができるなんてなんだか妙な感じだけど…」
そう言って比鼓能が微笑むと、それまで黙っていた巌幽が口を開いた。
「すまんな、比鼓能。この時期に交神の儀を行うこと自体、気が重い事だとは分かっているのだが」
現在一歳六ヶ月の巌幽は一族の最年長である。屈強な槍の使い手であった彼も朱点の呪いには勝てないのか、近頃は少しずつおとろえてきていた。普通にふるまってはいるが、蝋燭の明かりに照らされた顔は比鼓能が討伐に赴く前に見たときよりもかなりやつれており、彼の体調が思わしくないことは一目で見て取れる。
比鼓能は静かに首を横にふって巌幽を見た。
「巌幽兄さまが謝ることなんてないわ。くやしいけれど、わたし達の代では黄川人の力にまるで及ばないのはわかってる。それなら、わたしはわたしに今できることをするだけです。―――ふふ、強い子を、授けていただかなくっちゃね」
比鼓能の言葉に、巌幽は表情をくずした。
「―――強いな、お前は…。まったくうちの女達はつわものぞろいで頭が下がるぞ」
「まあ、女性に対してつわものはあんまりだわ。それって京では褒め言葉にはならないんですよ。ねぇ姉さま」
「まったくだ。少しは気の利いた世辞を言って欲しいもんだよ」
ひとしきり笑った後で、紅牙がふと次の間を見やった。そこには彼女の二人の娘達が眠っているはずである。
「あたし達でこの戦いにけりを着けられると…そう思っていたけれど。やっぱりあの子達も、この呪いから守ってやることはできなかったねぇ……」
そのつぶやきは、当主としてではなく、母としての紅牙の本音なのだろう。それを聞くと、比鼓能の胸は締め付けられるように痛むのだった。
(本当に強いのは、紅牙姉さまや巌幽兄さまだ。つらい現実を知っても、先を見据えて一族を導こうと常に心をくだいている。
それに引き換えわたしは―――わたしはただ、自分を支えるだけで精一杯なのに―――)
自分のこれからを思い描こうとすると、比鼓能の頭の中は靄がかかったように茫洋となるのだった。それはなんとも心もとなく、振り払おうとすればするほど囚われてしまう。
だから比鼓能は、それを考えぬよう、まわりに悟られぬよう、常に気丈にふるまうことしかできなかった。
「―――鼓能、比鼓能?」
「え?―――あ、ご免なさい!」
呼ばれてはっと我に返った。いつのまにかもの思いに沈んでしまっていたようである。
「大丈夫か?あんたあんまり顔に出さない性質だから…心配だなぁ。閃矢達のように態度があからさまなほうが、かえって神経のほうは丈夫だったりするもんなんだよねぇ」
「……いやだわ、平気ですよ。でも、そうね…少し討伐の疲れが出たみたい。わたしも歳なのかしら」
肩をすくめておどけてみせると、場はあっさりなごんだ。
「歳って……あんたより二ヶ月も先に生まれたあたしはどうなるのさ。―――と、それはいいか。疲れてるなら、早く寝たほうが良いね。
とりあえず交神の相手だけ適当に選んでくれ」
「相手…ですか」
今更ふいをつかれたような思いで、比鼓能はあわてて先ほど手渡された巻物に目を落とした。
いくらいずれはその日が来ると分かっていたとはいえ、急といえば急なことだったので、つらつらと書かれた神々の名前は、比鼓能にはどれも同じに見える。
「う〜ん」とうなっていると、横からイツ花がのぞきこんで言った。
「比鼓能さまは、あえて言えば風の力が弱いですかねぇ。そのへんで選んでみたらいかがですか?」
神様のことを「そのへん」呼ばわりとは、なかなか肝の太い娘である。だがその物言いにいくらか気楽になった比鼓能は、一つの名に目を止めた。
―――やたノ黒蝿―――
ふと、胸中をかすめるものがあった。
まばゆい光、暗色の衣、深い淵の様な濃緑の髪。
(ああ、あの方だ……)
それは、比鼓能が初陣の折に初めて朱の首輪から解き放った神の名だった。たった九ヶ月前のこととはいえ、あまりにも目まぐるしく色々なことがあったため、比鼓能もついぞ思い出すことは無かったのである。
だが、再び蘇った記憶は驚くほど鮮明で鮮烈だった。
『―――永らえたいと思うなら―――』
記憶の中の不機嫌そうな低い声がふいに懐かしくなって、気付けば比鼓能は言葉をつむいでいた。
「―――では、やたノ黒蝿様にお願いいたします」
当主の部屋を後にした比鼓能は、渡り廊下から庭の梅の若木をぼんやりと眺めた。細い枝にいくつもついた固い蕾は、人待ち顔で天を仰いでいる。
この蕾たちには分かるのだ。春が必ずくることが。未来があるということが。
紅牙は苦笑していたが、やはり自分は少し歳をとったのだと比鼓能は思う。これまではただがむしゃらで、季節の花に目をむけたことなどほとんどなかったのである。
討伐の最中は花を愛でる暇などあるはずもなし、仕方ないといえば仕方ない事だったのだが。おかげで比鼓能は、梅や桜の季節をまったく知らなかった。
京の貴人達はあんなにも春の花々におおさわぎするというのに。
「どうやら、今年も咲いた花を見ることはできないわね……」
誰にともなくつぶやいて、比鼓能はしばらくそこにたたずんでいた。
* * *
弥生のはじめ。
竜川家の屋敷には縄と護符で結界がわたされ、榊の小枝が飾られた。交神の儀のために家中が清められ、ただでさえ清廉な趣の屋敷は今では神の社のようである。
その粛々とした空気にそぐわぬ笑い声が、屋敷の一角から聞こえてきた。
「あはははははっ、やめ、やめてイツ花!ふっ、あはははは…っ」
「わっ急に動かないで下さいよぅ比鼓能様!イツ花があんまり器用じゃないことご存知でしょう?はい、じ〜っとしてェ…」
比鼓能の前に座ったイツ花の手には、紅筆が握られている。イツ花本人が言ったとおり、あまり器用でない指先は、先ほどから比鼓能の唇の上をくすぐるように震えるので、
比鼓能はたまらず笑い転げるのである。
「もう、いいったら!だいたい化粧なんていまさら恥ずかしいわよ。一度もしたことないのに……交神のときだけめかしこむなんておかしいと思うわ」
禊(みそぎ)を終えた比鼓能の顔は雪のように白く、唇は瑞々しく赤い。確かに化粧の必要などないのかもしれなかった。だが、「いいえ」とイツ花は意気込んだ。
「こんなときぐらいめかしこまなくってどーするんですか。バーンとォ!気合入れて、神様の一人や二人、めろめろにしなくっちゃぁ」
思わず比鼓能は目をしばたいてしまった。
「イツ花ってけっこう過激なことをいうのねぇ…」
「そうですかぁ?―――ん、よし!完成です!」
屋敷の奥の間にしつらえられた祭壇の前には、すでに一族が一堂に会していた。
最後にやってきた当主の後ろには、今日交神の儀に臨む比鼓能の姿があった。
一族のもの達は、比鼓能の姿を見て思わず息を呑んだ。
白の小袖に紅の長袴、その上から透ける単(ひとえ)を羽織っただけの飾り気のない姿だったが、薄く化粧をした比鼓能はぞっとするほど美しかった。
「比鼓能姉さま、天女様みたい……」
まだ幼い沙羅が嬉しそうに言うので、比鼓能は笑顔を見せた。
その一方では、彼女に憧れてやまない青年達が、まるで自分の背の君が奪われるような苦い顔をしている。
「比鼓能、前へ」
紅牙の声にうなずいて、比鼓能は祭壇の前へと進み出た。
「それでは、始めますよ。皆様お心をひとつに、やたノ黒蝿様のご降臨をお祈り下さいませ。―――これより祝詞(のりと)を奏上致します」
今は巫女装束に着替えたイツ花が、祭壇の中央に置かれた御幣(ごへい)の前に座り、朗々と祝詞をあげ始める。
これまでにも紅牙や巌幽の交神の儀に立ち会ったことのある比鼓能だったが、実際にはそれがどのようなものなのか、本人達から聞かされたことは無い。
イツ花の祝詞を聞きながら、比鼓能は自分がかなり緊張していることを自覚していた。
やがて祝詞は終わり、立ち上がったイツ花が舞の奉納をはじめた。それとほぼ同時に、祭壇の御幣がかさかさと鳴り、飾られた榊の葉が風に揺らぎだす。
―――ここまでは、いつもと同じだ。けれど―――
比鼓能は息を詰めて目の前の御幣を見つめていた。始めのうち、そよぐ程度であった風は、いつの間にか勢いを増し、巻き上げてある御簾をゆらし、皆の髪を吹き乱した。
思わず目を閉じた比鼓能の頭の中に、かすかに不機嫌そうな声がひびいた。
「ふ…よりによって俺か―――」
その声を聞いたとたん、ひときわ強い風が巻き起こり、比鼓能は身体が浮き上がるような奇妙な感覚を覚えた。と、ふいにあたりが真っ白になり、自分が何処にいるのか定まらなくなる。
先ほどまではっきりと聞こえていた神楽のための鈴の音色がずっと遠くから響いてくるように感じる。
上に向かっているのか、下に向かっているのか分からないが、とにかく比鼓能は自分がどこかへ運ばれているのだと理解した。
経験したことなど無かったが、急流にのまれたらこんな感じなのかもしれない。
(ここはいったい何処…いえ、何なのかしら―――)
ぼんやり思ったとき、耳元であの声が聞こえた。
「神の通い路というやつだ。人の身にはきついだろうが、もう少しだから我慢していろ」
頭の中の問いに答えが返って来た事に驚き、比鼓能は目を開いた。目の前は墨一色である。
すると、もう一度あの声が、
「目を開くのは勝手だが、振り落とされるなよ」
その声が真に自分の耳元でささやかれていることに気付いて、比鼓能が思わず顔を上げると、すぐそこには金色の瞳をした男の顔があった。
墨一色と思っていたのは、目の前にある男の衣のせいだった。つまり比鼓能は、男に抱きしめられる格好で今まで目を閉じていたのである。
「――――!!!」
あまりに驚いて、比鼓能はつかんでいた男の袖を放してしまった。
「あっ、おいこら!」
気付いたときには遅かった。手が離れた瞬間、比鼓能はものすごい勢いで弾き飛ばされ、あっという間に黒衣の男の姿は見えなくなってしまう。唸りを上げて風が身体を巻き込み、引きちぎろうとするかのように渦を巻く。
薄れてゆく意識の中で、比鼓能はのんきにつぶやいた。
(そうそう、黒蝿様はああいうお顔だった。―――なかなか素敵な殿方よね……)
そして、本当に辺りは闇になった。