三、
ぼんやりと、意識が浮上するのを感じた。
何かが頬をくすぐる感触に気付き、比鼓能はうっすらと閉じていた目を開けた。
光が目蓋の裏ににじみ、すぐには何も見えない。なんとか明るさに目を慣らすと、美しい青空が目の前いっぱいに開けた。しばらくそれをぼうっと見上げていたが、にわかに気を失っていた理由を思い出し、勢いよく起き上がる。
「―――ここ…何処なのかしら…」
軽い目眩を覚えながら、比鼓能はゆっくりと辺りを見回した。
そこは、見渡す限り何もない、緑の草の原であった。
生まれてこのかた京の都と鬼の巣窟しか知らない比鼓能にとって、その景色は衝撃だった。あまりにも広大で、何処まで行っても果てなどないかのように思える地平が、はるか彼方までなだらかな起伏を描きながら続いている。人の手の入った跡は見て取れず、草は自由にはびこり、所々には剥き出しの岩が顔をのぞかせていた。
不思議なことには、今はまだ弥生の始めであるのにもかかわらず、野の花が辺り一面に咲き乱れている。比鼓能の頬をくすぐったのは、これらの小さき花々であったようだ。
(―――綺麗。…でも、なんて―――)
なんて孤独なのだろう、と比鼓能は思った。
美しい景色である。だがその美しさは、感情の一つも雑じらない大自然の冷酷さであり、ここに一人で長くたたずんでいることは、感情を持つものにはあまりに辛いことのように思われるのだった。
「困ったわ…何処にも出口は無いみたいだし。…ここってもしかして“あの世”というものじゃないかしら…」
だとしたら、比鼓能は初めて交神の儀で死んだ人間になるわけで、それはあまりにも格好のつかない最後である。そう考えると可笑しくなってしまい、比鼓能はつい吹き出してしまった。
「だとすれば、本当に困ったことだわ…。先に逝った一族の方々に申し開きできないわ…」
自分でものんきすぎると思いつつ、比鼓能は笑いを止められなかった。
(とりあえず、しばらくここにいることにしよう)
知らない土地で無暗に歩き回ることは、得策ではない。
もし死後の世界なら、きっとそれらしいお迎えがやってくるだろう、などと悠長なことを考える。
儀式の時に気を張っていたため、あまりに予想外のこの展開に、比鼓能はなかば脱力してしまっていた。再び草の上に寝転び、広がる空を見つめる。
(黒蝿様は、どうされたかしら。―――わたしを探して下さったりするのかしら…)
頬をくすぐる花は優しく、風は京よりもはるかに暖かい。
それでもやはりここは寂しい場所だ、と思う。
気分を紛らわせるために歌を歌った。
「一かけ、二かけ、三かけて
稲荷の神さんに願かけりゃ、裏のきつねがコンと鳴く
四かけ、五かけ、六かけて
おうちの軒端にべべかけりゃ、婿さん車でやってくる
七かけ、八かけ、九かけて
ここらでちょいとかえそうか、さァ、かえそうか―――」
調子の良い節回しは、歌いだすと唇が勝手に繰り返してしまう。比鼓能は目を閉じて、ほとんど無意識に歌い続けた。
何度目かを歌い終わったころ、ふいに頭上がかげったのが、閉じたまぶたに感じられた。
空が曇ったのかと目をあけると、そこには思いがけず間近に人の顔があった。
「………っ」
こんなに近くに来られるまで気配に気づかないなど、常の自分には考えられない事だった。驚いて声も出せずにいると、相手は無邪気な口調で比鼓能に話し掛けてきた。
「それ“てまりうた”でしょー、小鳥知ってるの!人間の子よく歌ってた!」
小さな女の子だった。桃色の着物を着て、首の辺りで短く切りそろえられた髪が、少し傾げられた顔にそって落ちている。そしてその背には、普通の人間には見られぬもの―――小さな、茶色の翼がついていた。
「あの、あなたは…?」
「小鳥はねー、都に遊びに行ったことがあるの!いっぱい行った事ある!それでね、それでね、人間の子がすることいっぱい見てたの。だから知ってるのー」
比鼓能の問いかけに、少女は少し的外れな答えを一生懸命しゃべりだした。見かけは十歳くらいに見えるのだが、舌足らずな話し方はずいぶんと幼い。
その様子が、一族の末の女の子達を思い出させ、比鼓能は微笑んだ。
小鳥という名であるらしいその子に、比鼓能はものをたずねるべく再び口を開きかけた。
「あ、あのね、小鳥ちゃん…」
「あ!そうだぁ、あのね、小鳥はね、見つけなさいって言われてね、それで探してたのー!それでお歌が聞こえたから、それが人間の歌でね、そしたら人間がいたからね、きっとそうだって思ったの!」
比鼓能の言葉が終わらないうちに、小鳥は再び甲高い声でしゃべりまくり、最後に丸い頬をさらに丸くして笑った。
「ひ…、ひこ…、比鼓さま!比鼓さまでしょぉ、小鳥見つけたのー!」
比鼓能は、少し違う…と思いつつ、少女が自分を探していたらしいことに驚いた。と、比鼓能が答える前に、小鳥は天に向かって大声をあげた。
「見・つ・け・た・よぉーう!比鼓さま、見・つ・け・た・よぉーう!」
すると、それに応えるように強い風がざぁっと吹き、一瞬のうちに目の前に黒い影が立った。
「フン、手間をかけさせおって。前代未聞だぞこんなことは」
聞き覚えのある不機嫌そうな声の主は、やたノ黒蝿であった。
まだ呆然としている比鼓能の顔を、黒蝿はまじまじとながめてから言った。
「思い出した、お前いつぞや俺を斬りつけた小娘だな?…なにやら因縁を感じるぞまったく…。神に自分を探し回らせるとはどういう了見だ」
(―――探していて下さったのか…)
黒蝿の言葉に、いくらか肩の力のぬけた比鼓能は、急速に常の自分を取り戻した。
「探して下さっていたとは、存じ上げませんでした。―――有り難うございます。あらためまして私、竜川の血に連なる者。名を比鼓能と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
その場で三つ指をそろえて頭を下げた。そして、顔を上げてにっこりと微笑む。
いくら我慢強い比鼓能であっても、この果てのない草の原には途方にくれていたので、黒蝿が探してくれていたことは本当に嬉しかった。
比鼓能の笑顔は、見たものが必ずつられずにおれない力を持っている。目の前の不機嫌そうな男神も、例外ではなかったようで、黒蝿はかすかに口の端に笑みを上らせた。
「ふ…、とぼけた娘だ。度胸だけは一人前だな」
一方、自分の笑みにそのような力があると自分では気付かない比鼓能は、表情には出さずにひそかに感動していた。
(まぁぁ、笑ったわ…。よかった…お姿は恐そうだけれど、お心は優しい方なのかもしれない)
そう思ってから比鼓能は、何度か黒蝿に自分の心中を読まれたことを思い出し、ふと黒蝿を見上げた。しかしそれは懸念だったようで、黒蝿はもとの不機嫌な顔で比鼓能を見ているだけだった。
「しかし運のいいやつだ。俺の庭に落ちたからいいようなものの、他の場所では五体満足では居られんぞ。それどころか次元の穴にでも落ちれば、天も地もない場所に永劫に閉じ込められるところだ」
それを聞いて、比鼓能は初めてぞっとした。―――あれはそういう道だったのだ。
すると、それまでだまっていたことが奇跡であるかのように、傍らにいた小鳥が話し始めた。
「あのねー、比鼓さまが落っこちたときにね、黒蝿さまが風でびゅうんってね、お庭のほうに吹き飛ばしたんだって。だからきっとお庭のどこかにいるはずだって言ってね、小鳥に比鼓さまを探しなさいってゆったのー。すごいでしょー。それでね、それで小鳥が比鼓さまを見つけたの!小鳥もすごいでしょー。ねーっ!」
「少し黙れ小鳥。お前がしゃべると頭痛がするといつもいってるだろうが」
比鼓能はあらためて、この対照的な二人をみた。
「あの…、この小さい子はいったい…」
「ああ、これは小鳥という。これから俺の宮にいるあいだお前の身辺の世話をさせる。好きに使うがいい」
(好きに使えって…こんな小さい子を?)
どうみても世話をしてもらう自分よりは、この子の世話を焼いている自分のほうが目に浮かぶ。
比鼓能は小鳥の背にぱたぱたとせわしなく動く茶色の翼を見、それから黒蝿の背にゆったりとたたまれた漆黒の翼を見て、口をひらいた。
「―――もしかして、ご息女ですか?」
途端にものすごく嫌そうな顔をして黒蝿は言った。
「阿呆、どこをどうすればそういう答が出るのだ。これが俺の娘に見えるか!」
見えなくもない、と言いそうになるのを比鼓能は何とか飲み込み、話をそらした。
「あの、ところで先ほどから庭とか宮とか…私は気付きませんでしたが、ここが天界なのですか?」
比鼓能の問いに、面白くもなさそうに黒蝿は答えた。
「そうだといえばそうだし、そうでないといえばそうではない。お前達の思い描く天界と言うのは、俺達にとってみればただの詰め所だ。普段はそれぞれ自分の宮にて自分に属する力を統括する。ここはもちろん人間の住まう世とは理(ことわり)を異にする場所だが、ここから吹く風は人界へ流れて暖かき季節をもたらす。ここは南の風の生まれる処。…そして俺の棲み家だ」
つまり、神々は天界というひとつ所におわすのではなく、それぞれに持ち場があり、そこに住まうということであるらしい。そういわれてみると、この草原の一足早い春の風景もうなずける。ここで生まれた風がやがて下界へと届き、春をもたらすのだろう。
(でも、宮なんて在ったかしら。見渡す限り何にも無いように見えるのに)
「…では、宮に案内しよう。いつまでもここに突っ立っていては埒があかん」
―――やはり読まれているのでは、と比鼓能は心の中で肩をすくめた。
突風にみまわれ、思わずつぶった目を再び開くと、目の前にはいつの間にか大きな門構えが現れていた。
目をしばたいている比鼓能を見てにやりとすると、黒蝿は黒塗りの門に手をかざした。ゆっくりと、ひとりでに門が開く。
「宮などないではないかと思っていただろう。…ここは主人が許可しない限り何人も入れぬようになっているのだ。一度入ったものが何かを道しるべにもう一度入ろうとしてもそれもかなわぬ。門は常にこの原のどこかには存在するが、定まった場所につながってはおらんのだ」
「ああ…、そういうことですか」
それは鬼の棲む迷宮で経験したことがある。一度奥に進む道を見つけて記憶しておいても、次に赴くときにはまったく別の場所に通じていたりするのだ。入りたいものにはややこしいことこの上ないが、内を守るものにとっては都合が良い。
「意地が悪いんですねぇ…」
比鼓能が何の含みもなくただ思ったままを口にすると、黒蝿はまた嫌そうな顔をした。
「用心深いと言え」
黒蝿の宮は、比鼓能がおぼろげに思い描いていた神の家の想像図を見事にくつがえした。
何とは無しに御所のような絢爛たる様を想像していたのだが、そこは落ち着いた、そして少々古めかしい館であった。
比鼓能はその雰囲気が竜川の屋敷に似ていると密かに思った。床板は踏めばところどころきしきしと音をたてたし、柱は年季の入った色艶をしている。
だが、もっと意表を突かれたのはその庭であった。
黒蝿と小鳥は外の草原を“庭”と呼んでいたが、京人の比鼓能からすれば、門の中こそが庭である。
門の中は、様々な草木が生い茂って小さな森のようになっていた。一応庭園としての体裁を保つ程度に配置がなされていたし、植えられているのは庭木の類のように見えるのだが、どれも好き放題に枝葉を伸ばしあって、鬱蒼としている。そして、その木々のどれもが齢を長く重ねた巨木なのである。
渡り廊下を案内されながら、比鼓能はそれらの木々を興味深く眺めた。そして、いくつかの白い花を咲かせた木を見て立ち止まった。
「あれは…もしかして梅の木ですか?」
「そうだが…それがどうかしたか?」
「花が咲いてるわ……」
黒蝿はあきれたように比鼓能を見ていった。
「何を言っている。梅なら花も咲くだろう。そんなことも知らんのか?」
比鼓能はそれでも熱心に梅を見続けている。
「―――いいえ…いいえ、ただ……私、花が咲いたところを一度も見たことがなかったものですから」
うっすらと笑みをうかべた比鼓能を黒蝿はだまって見ていたが、やがて自分も梅の木に目をやった。
「―――そうか」
その言葉に、比鼓能は我にかえった。
我ながら感傷的だったかもしれない、と気恥ずかしくなり、あわててその場を取りつくろう。
「あ、でも…少し残念だわ、ここの梅はもう終わりなんですね」
季節が一足早い黒蝿の宮の梅は、もうあらかた散ってしまった後で、今見ているのはわずかばかり残っている花だけなのだ。
「そうだな。だがまぁ、春の花はこれからが盛りだからな。しばらく待てば桜が咲くだろう」
そう言って、黒蝿は門の両脇に何本も植えられた天を覆うような桜の巨木を指差した。
「桜ですか?嬉しい!美しいと京でもそれは人気で……一度見てみたかったのです」
―――生きているうちに、一度。
それは儚い夢だったはずだが、おもいもかけないところで叶いそうだった。
桜の散る様はそれは美しいのだという。見てみたい。どのように咲いて、どのように散るのか。
そして、できることならばその心が知りたいと、比鼓能は思う。
何のために咲くのか。ただ咲いて散ることに、未練はないか。
「そろそろ行くぞ」
「あ、はい」
促されて、後に続く。
(―――どうかしている)
比鼓能は苦笑した。
自分は弱い。どうしようもないほど。
無我夢中で、一族の呪いが解ける日だけをよすがに鬼を斬り続けた幼い頃にはもう戻れなかった。
ただ淡々と、比鼓能は黒蝿についていく。
やがて、門の桜の巨木がよく見える離れに通された。
「この離れを好きに使って良い。宮の門の内側ならどこを歩き回るのも自由だが、迷わぬように注意しろ。母屋の一番奥が俺の部屋。小鳥は東の棟にいるが、お前が呼べば風が伝えるようにしておくから、どこにでもすぐに行くだろう。必要なものがあれば言うように。すぐに用意させる」
約定を読み上げるように、黒蝿は淀みなく言った。
「こちらには、本当に黒蝿様と小鳥ちゃんしか住んでらっしゃらないのですか?ずいぶん静かですけど。…何かと不便があったりするのでは」
辺りを見回しながら比鼓能は訊ねた。
「別に不便などない。それに、普段なら風の統治も兼ねるから、多忙なときには眷属(けんぞく)を使いもするが、今は交神月だからな。あまり強い力は使えんのだ」
どういうことなのか良く分からず首をかしげると、黒蝿は溜め息をついた。
「人間と交わるには常と同じ神気を持ったままでは無理なのだ。普段なら俺とお前は触れ合えぬ。存在する場所も、魂の理も違うからな。だが交神月の間は儀式によって互いが近しいものになるのさ。お前は生身の人間だが、今はわずかに神気を持っている。逆に俺は、神でありながら今は生身の身体を得ている。生身というのは、強い力を支えられないものだからな…面倒なことこの上ない」
神気を持っていると聞いて、比鼓能は自分の手のひらを見た。
(普段と変わらないと思っていたのに……)
黒蝿は苦笑した。
「手など見たところで何も見えはせん」
それを聞きながら、比鼓能は手を握り締めた。
「でも黄川人は…あの子は生身の身体を取り戻したわ。それでもあれほどの力が使えるというの…」
比鼓能の言葉に、黒蝿は目をすがめた。握り締められた女の手はかすかに震えている。それが恐怖ゆえか、怒りゆえか、それとも別の感情によるものか、見て取ることはできなかった。
「あれは例外中の例外だ。天界の誰も――朱点の力を真に見極めることはできなかったのだ。自分達より器の大きいものを測ることなどできん。今となっては何を言ったところでとりかえしがつかないがな。……例外には、例外を。今の天界が望みを託しているのは、その不確かな駒ただ一つなのさ」
「例外には…例外を…」
それがどういうことなのか、大江山での戦い以来、比鼓能はうすうす勘付いていた。
自分達が途方もなく大きな盤上の駒であるということに。
だからといって、どうすればいいというのか。今更降りることなどかなわない。戦いを続けていく他に、自分達に道などないのだ。
蒼白な面持ちになった比鼓能に黒蝿は低く問うた。
「―――お前、それでも子が欲しいか?」
比鼓能はゆっくりと黒蝿を見た。紅の瞳がわずかに揺れたが、その態度に動揺は表れなかった。困ったような微笑を浮かべて比鼓能は言った。
「黒蝿様は、やはり意地悪ですね…。言われなければ、気付かずにすむ事だってあるかもしれないのに」
「―――だがお前は気付いていたな」
「おろかな考えです。神を神と崇めない、恐れをしらぬ考えです」
紅の瞳から視線をはずすと、黒蝿は庭の木々を見やった。
「――――お前は、今でも朱点を黄川人と呼ぶのだな」
「………」
比鼓能は思ってもみなかったことを言われ、まばたきをした。
そう、そういえばそうだった…。だって、自分にはわからないのだ。黄川人は朱点童子で、確かに倒すべき相手なのであろうが、それでいいのか。
―――それで終わるのか。
大きな盤上にいる自分には、見極められない。一族の行く末を見届けることもできない―――。
無言の比鼓能を黒蝿はまた見つめたが、それ以上何も言わなかった。
「―――今宵、そちらへ行く」
それだけ言い残すと、衣の裾を翻し、長い廊下を歩き去って行く。
比鼓能はその場に立ちつくしたまま、その後姿を見送った。