四、

「覚悟は良いか」
 薄明かりの中、低い声がそう訊ねる。比鼓能はかすかに頷いた。
 男神の手が比鼓能の頬に触れた。

 ―――大江山で朱点童子を倒すまで、比鼓能には確かな信念があった。
 生きるために鬼を斬った。
 鬼は京の都にとっての明確な害悪であったし、一族を苦しめ続け、母を、大好きな一族の皆を、自分からもぎ取っていった呪いを木っ端微塵に砕いてやりたかった。
 幼い頃は気付く余裕すらなかったが、比鼓能の中にそうして渦巻く憎悪と悲しみは相当なものだったのである。
 自分の代で朱点童子を倒せる、そして一族にかけられた呪いを退けることができると信じて疑わなかった比鼓能は、物静かで優しげな容貌の下に激しい闘志を常に持っていた。その闘志は、幼い少女を討伐に没頭させ、時には己の命を顧みる余裕を奪った。
 その諸刃の剣に鞘を与えたのは、ある男神の一言であった。
『お前の戦い方は少々あやうい。“永らえたい”と思うなら改めるんだな』
 ―――そう、比鼓能は永らえたかった。
 そして、一族を生かしたかった。
 もう誰一人、自分の大切な人達を奪わせはしない。普通に生きて、愛しい人を見つけ、子を育み、穏やかに老いて死ぬ…そんな日々を、きっと竜川にもたらすのだ。
 そのために自分は生きるのだと思った。
 さらに明確な目標を得た少女は、したたかな強さとしなやかな美しさを身に付け成長した。
 そしてついに比鼓能と一族達は怨敵を討ち取った。
 ―――だが、終わりはやって来なかった。
 その時比鼓能の心には、直感的にある考えがよぎったのだった。
(神々は、こうなることを知っていながらわたし達に真実を伏せていた。それは何を意味するだろう。何故わたし達は人とは違う力を“特別”に与えられているのか)
 自分達の命は、何かもっと大きなものの掌の中で転がされているのではないだろうか。黄川人は言っていたではないか。
『また会おうぜ、兄弟―――
 何故兄弟なのか。何故万物を統べる神々ですら、黄川人を倒すことができなかったのか。何故そのような相手に、わざわざ短命の呪いを受けた竜川一族を選び向かわせるのか。
 答は一つのように思われる。すなわち。
 自分達と黄川人は、同じものなのではないか?
 神と人との間に生まれた自分達と、あの、恐るべき力を持った少年とは―――
 その先を考えるのが、比鼓能は恐ろしかった。わざと思考を閉ざし、考えないように無意識に蓋をして。だが、黒蝿は確かに言ったのだ。“例外には例外を―――”と。それが神々の真の意であるなら。

 生きるために殺すのではなく。
 殺すために、生かされている――――

「何を考えている」
 黒蝿の低い声がすぐ耳元で囁いた。褥に組み敷かれた比鼓能は、かすかに首を振った。
「いいえ…何も」
 こんな時ですら笑みを作れてしまうことに比鼓能は自分で呆れる。心とはうらはらに、冷静な態度をとることができる自分自身を比鼓能は良く知っていた。
(なんて可愛げのない女なんだろう)
 黒蝿の手が着物の襟にかかったので、比鼓能は身体をこわばらせた。相手の背に回した腕に、かすかに力がこもる。
 早く。早く。
 無意識に蓋をした思考が余計な事をさわぎたてる前に、全てを終わらせてしまいたかった。
 しかし、黒蝿の手はそれ以上動くことはなかった。溜め息をつくと、黒蝿は比鼓能の上から身を起こした。
「……?」
 突然解放された比鼓能は、相手の変化に気付き、恐る恐る閉じていた目を開いた。
「あ…の…黒蝿様…?」
「やめた」
「は…?」
 目をしばたく比鼓能から身体を離すと、黒蝿はかすかに乱れた衣を直し始めた。
 面食らった比鼓能のほうは、ただその姿を見つめることしかできない。が、ふいに我にかえると、自分も襟元を直しながら問いかけた。
「あの…私何かお気に召さないことしたでしょうか……あ、もしかして何もしなかったのがお気に召さなかった…とか?」
 言ってしまってから、自分でも何を言っているのかわからなくなる。
「阿呆、そんな事ではない。―――まぁ、何も今日でなくてはならない事でもあるまい。まだ丸一月もあるのだ。今夜は襲わんから寝てしまえ」
―――私、色気足りないでしょうか?」
 比鼓能が思わず真剣に訊ねると、黒蝿は苦笑した。
「今日、あのような話をするつもりはなかった。だが、お前がどこまで勘付いているのか試してみたくなってな。かまをかけたのだ。……おまえは勘のいい女だ。真実を知った上でどう出るのかみてみたかった―――
「お止めください!」
 比鼓能はふいに鋭く言った。
「私を試したとおっしゃるのですか。真実ってなんです?そんなことどうでもいい、大切なものを目の前で失わない為なら、私は何だってするでしょう。けれど―――私にはもうわずかしか時間が残っていない。自分にできることをするより他に道などないではありませんか!」
 めったになく声を荒げてしまってから、比鼓能は我にかえった。
――――それがお前の本音か?」
 顔を上げると、静かな表情で黒蝿が見つめていた。金色の双眸にすべてを見透かされているような気がして、比鼓能は身をすくませた。
 もう一つかまをかけられたのだと、今頃になって気付く。
「幼き頃も今も、お前の本質は変わっていないようだ――。生きたいと強く思う割には刹那的で保身を考えない。だから信念を失うと途端に弱くなるのだ。―――今のお前は、以前俺を斬ったときよりよほど危うく見えるぞ」
「わ…私が、信念を失っていると……?」
「俺にはそう見える」
 噛み締めた唇が震えた。
 ひた隠していた心のうちを目の前につきつけられ、身動きがとれない。
 俯いた比鼓能の顎をつまんで仰向かせると、黒蝿は静かに言った。
「お前にはゆっくり考える時間が必要だ。だから今は手を出さん。……使命のためではなく、自分自身のために、生きたいかそうでないか、じっくり考えるんだな。―――覚悟のない者を抱くのは俺の趣味ではない」
 衣擦れの音をさせて立ち上がると、黒蝿はさっさと寝所をあとにしてしまった。
 一人残された比鼓能はしばらく呆然としていたが、ふいにその場にくずおれた。
 大きく息をついて自分の手を見ると、両の手は小刻みに震えている。抑えようと強く握り締めると、指先だけでなく体中がかたかたと震えるのがわかった。
――――う……っ」
 微かに漏れた吐息が嗚咽に変わるまで、長くはかからなかった。
 頬を伝う熱いものが涙だと気付くと、比鼓能は驚き、泣きながら笑ってしまった。
(わたし、泣くことができたのね―――
 最後に泣いたのはいつだっただろうか。
 比鼓能には、泣いた記憶というものがない。母や、一族の者の最期を看取った時も、朱点に希望を打ち砕かれたときも。どんなに辛くてもひたすら耐えて、いつしか微笑みにすり変えてしまった。
 比鼓能は泣き方を知らず、涙によって感情を流すすべを知らなかったのだ。
 一度堰を切ってあふれたものは、なかなかとどまってはくれなかった。泣き方を知らなかったからには、それを止めるすべもまた、比鼓能には分からないのだから。
―――たすけて…かあさま……っ」
(怖い―――
 一族の不確かな行く末も恐ろしかったが、それを知って絶望している自分を突きつけられるほうがさらに恐ろしかった。
(何故今更気付かせたりするの……わたしは、死ぬまで強い自分でいたかったのに。強い自分でいなければならなかったのに……)
 比鼓能はほの暗い褥にうずくまり、あとからあとから頬を伝い落ちる雫を、必死に抑えようと目を閉じるのだった。



 *     *     *



 ―――薄明かりと、微かに聞こえる鳥の声に目を覚ました。
 格子のわずかな隙間から絹糸のように細い朝の光が差し込んでいる。
 いつの間にか泣き疲れて眠ってしまっていたらしい。そんなことは初めての経験だったので、比鼓能は一瞬とまどってしまった。
 とりあえず今がどれくらいの時間なのか知ろうと、起き出して御簾を持ち上げると、泣きはらした目を刺し貫くように光がはじけた。
 外はうららかな初春の空気に満たされており、透ける様な緑の芽をつけた木々の枝が、かすかな風にたゆたうように揺れている。
―――なんて綺麗なのかしら……」
 つぶやきながら、比鼓能は昨夜の出来事を思い返してみた。
 腫れぼったい目蓋と身体は重たかったが、不思議なことに心はいくらかすっきりとしていた。
 これが涙の効果であるなら、自分は今まで随分損をしてきたのだな、とぼんやり思う。
 とはいえ、自分の中に確かなよるべが生まれたわけではなく、比鼓能は昨夜黒蝿に暴かれたままの、弱く頼りない比鼓能でしかない。だが、不思議と今はそれをすんなり受け止めることができた。
(わたしは、黒蝿様に甘えていたのかもしれない―――
 生き方を変えるきっかけをくれた方だったから―――弱っている自分を、また変えるきっかけをくれるのではと、勝手に期待してしまっていたのかもしれない。
(わたしは、信じられる何かが欲しかったのだ。信じていいのだと、誰かに言って欲しかったのだ―――たとえそれが子供だましの嘘だったとしても)
 だが黒蝿はそれをしなかった。いきなり真実を突きつけて、比鼓能の弱さをばっさりと切って捨てた。
 それは一見無情な行為に思えるが、よくよく考えれば上等の優しさと言って良いのではないか。
「自分自身の為に、生きる―――か」
 生まれ出でてからもうすぐ一年と一月。あっという間に月日は流れてしまう。朱点の呪いが解けていない以上、比鼓能にできることはもう本当にわずかしか無かった。
 死は足早に背後に迫ってきている。そのことを、自分自身と向き合い始めたことで初めて本気で恐ろしいと感じる。
(それを隠しとおすことはもうできないんだわ。わたしは、生きる覚悟をしなければならない…どうしたらそれができるのか、やっぱりまだ分からないけれど)
 比鼓能は自分の不器用さに途方にくれていたが、それでも不思議と昨夜のような暗澹たる心持にはならなかった。
 しばらくそのまま外を見ていると、ふいに渡り廊下をパタパタと駆けて来る足音が聞こえた。
「比鼓さま〜ぁ!」
 足音の主は小鳥であった。
 その手には、少々大きすぎるような漆塗りの膳が乗っている。
「おはよう小鳥ちゃん」
 比鼓能が微笑んで挨拶すると、小鳥も嬉しそうに挨拶を返した。
「あのね、あさげを持ってきたのー!小鳥作ったんだよ!食べる?食べるでしょー?おいしいのー!」
 相変わらずたどたどしいしゃべり言葉だったが、有無を言わさず勧められて口に運んだあさげは、以外にも本当に美味しかった。
 食べ終えて一息ついた比鼓能は、ふいに思い立って小鳥に訊ねた。
「ねぇ小鳥ちゃん、小鳥ちゃんはこのお屋敷のこと良く知っているの?」
 小鳥は機嫌よく、そして自慢そうに黒目がちの瞳をきらきらさせて答える。
「小鳥よく知ってるよ!小鳥が来てから夏が来て秋が来て冬が来て、春になったんだよ!小鳥はだから、よく知ってるの!おうちの中でも、外でもいっぱい遊んだんだもん。だから知ってるのー!」
「それなら、わたしが欲しいものが在るところに、今から連れて行ってほしいのよ」




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