五、

 自分が鬼に変じていた時の事を、黒蝿はまざまざと思い出すことができた。力と姿を封じられていただけで、実のところ自分が何をしでかしているのかは理解できていたのだ。
 それだというのに、実際長い間、あの忌まわしい首輪に畜生のごとくつながれていたのだからお笑い草である。
 朱の首輪―――それは、もとから朱点童子の作り出したものでは無い。
 元の名を『呪(しゅ)の首輪』という。それは、どのような方法を用いても死ぬことの無い神という存在に、唯一制裁を加えることのできる呪物であった。高位の神々が天界の秩序を守るという名目の下、力を合わせて作り出した刑具―――それが『呪の首輪』なのである。これをはめられた神は、その力をほとんど封じられ、地上に落とされる。遥かな昔から、天の理にそわぬ神々がこの『呪の首輪』によって封じられてきたのだった。
 実際、朱点童子が現れる以前から、この首輪は使われていたのである。ある者は人間にいらぬ知恵を授けたとして地上の楼閣に封印され、ある者は天界の奢り高ぶった在り方に倦み疲れ、自ら首輪をはめて氷の室にひきこもった。
 その首輪の力を知った鬼子―――黄川人は、それを自分の復讐の為に利用することを思いついたのだろう。おそらくは、天界を愚弄するために。黄川人は見よう見まねで自ら作り出した首輪を使い、神々を狩り始めた。そして、おとしめた神を手駒としたのである。
 黒蝿は、狩られた者の一人だった。虚をつかれたといえばそれまでだが、たとえ真っ向から挑んだとしても黄川人の力にはかなわなかった―――はずである。黄川人の作った『朱の首輪』は、天界上位の神々の力が束ねられた『呪の首輪』に匹敵する呪力があったのだから。
 そうして、やたノ黒蝿という神は、カラス天狗という器のなかに長い間とじこめられ、器が朱点童子の思うままに動くところを内側からずっと見ていたのだった。
 神々と朱点童子との戦いも、その結末も目にしたし、その後に天界が打ち出した無謀な計画も知った。
 馬鹿馬鹿しいと思った。無謀すぎる賭けだ。“朱点童子に対抗できる、もう一人の鬼子を作る”など、正気の沙汰とも思えぬ。
 もともと、この争いごとに干渉する気の無かった黒蝿は、むしろ天界に戻ることを厭うたぐらいである。
 だが結局は戻されてしまった。天を信じて疑わない、憐れな鬼子達によって。
 九ヶ月前の九重楼で、朱の首輪から解放される寸前、黒蝿は自分を斬った娘の闘気が風となって耳元を吹きすぎていく音を聴いた。
『生キタイ、生キナケレバ―――
 それは命短い者のみが持つ、純粋な魂の叫びなのであった。黒蝿は自分の身体が神格を取り戻すのを感じながら、鬱々とした気分になった。
 以来、ずっと不機嫌である。
 憤っているような、憂えているような、哀れんでいるような―――わけのわからない不快な感情に苛立っている。
 ―――否、“感情があることを思い知らされた事”に苛立っているのか。
 瑣末なことにいちいち憤り、憂え、哀れみを覚えていては、永遠の命など生きられぬ。
 だからこそ下界に干渉することは、長い間神々の禁忌とされてきたのではなかったのか――――
 
 ヒュッ―――と、空を切る微かな音が耳に届き、黒蝿は閉じていた目を開けた。
 つまらないことを考えているうちに、いつの間にか外はすっかり明るくなっていた。
 もたれていた脇息から身を起こす。その間にも、音は絶え間なく続いた。どうやら庭のほうから聞こえてくるようだ。
 部屋から出て、長い渡り廊下を音のするほうへ歩いて行くと、門の右脇に植えられた桜の大木の下に、袴姿にたすきがけといういでたちの比鼓能が居た。手には雅な刃をそなえた大きな薙刀を持っている。
 比鼓能はその大薙刀を、一見折れそうに細い腕で、なんの苦も無く操っていた。おもいきり横に薙いだかと思えば、すぐさまそれを引き戻し、また一閃する。刃を返してまた一閃。
 あれほどの大薙刀となれば、振り回したときにかかる重さは相当なもののはずである。しかし娘はそれを、まるで扇でも振るように軽々と閃かせるのだった。刃が翻るたびに陽光を反射させて飛び散る銀の光と、動きにそって右へ左へ流れる浅葱色の髪が、幻想的な舞を思わせる。
 黒蝿は無言でしばらくそれに見入った。
 いくつかの型を終えた後で、ようやく比鼓能は渡り廊下にたたずむ黒蝿に気がついた。
「黒蝿様……!―――お早うございます。いやだわ、いらっしゃったならお声をかけて下さればよろしかったのに」
「ふ…。あまり熱心だから、水をさしては悪いと思ったのだ」
 黒蝿が庭に降り立ちながらそう言うと、比鼓能はあわてて少し決まり悪げに着物を直した。
「あ…、この薙刀、小鳥ちゃんに言って勝手にお借りしてしまいました。必要なものがあればそのようにせよとおっしゃっていたので…」
「構わんぞ。そういうものなら蔵に山ほどあっただろう」
「ええ、案内されて驚きましたわ。すばらしいわざものばかりで、この世のものとは―――ああ、神の世のものなんですものね。名品ばかりのはずだわ」
 そう言って、うっとりしながら薙刀を見る比鼓能には、昨夜の不安げな様子は見られなかった。
 すでに立ち直ったものか。それとも隠しているだけなのか、黒蝿にもにわかには判断がつかない。実に捉えどころの無い娘である。
―――お前、俺に何か言うことは無いのか?」
 思わずそう訊ねると、比鼓能はわずかに表情を硬くした。
 やはり、完全に立ち直ったわけではないのだ。どう出るのかと伺っていると、比鼓能はふっと息を吐いた。そうして、黒蝿を見上げ、予想外のことを口にしたのだった。
「黒蝿様、お手合わせ願えますか」
 これにはさすがの黒蝿も二の句が告げなかった。思わず目を見張ると、比鼓能はおかしそうに、ふふと笑った。
「いきなり変なことを申してすみません。けれど黒蝿様、これが竜川流なんですよ。道が見えぬ時には戦って切り開くのです。私、ここのところずっと胸のつかえを持ったまま戦っていたので、少しすっきりしたいのです。お相手して頂けないでしょうか」
 今度は黒蝿が笑う番だった。娘の意外な強靭さが面白かったのだ。
 クククと低く喉を鳴らして笑っている黒蝿を、比鼓能は怪訝そうにのぞきこんだ。
「あ、あのぅ…?」
「いいだろう。―――俺もその流儀には賛成だ。どうせやることも無くて暇だしな」
 そう言ってかかげた右手に、黒い柄を持つ錫杖があらわれる。それをゆったりと構え、黒蝿は少しからかうような口調で言った。
「先に言っておくが、いつかの九重楼の時と同じだと思っていては痛い目にあうぞ。朱点に封じられていた力は戻ったのだからな」
 応じて比鼓能も薙刀を構えながら、艶然と微笑んだ。
「あら、ご心配には及びません。―――私、こう見えてもかなり強いんですよ」

 ギンッ―――と、金属のかち合う音が響く。
 触れた鋼は小さな星のような火花を散らす。
 音はすさまじさを増しながら、たてつづけに辺りの空気を震わせた。
 比鼓能の斬撃を次々に錫杖で受け流しながら、黒蝿は内心舌を巻いていた。
 さきほどの比鼓能の言葉は誇張などではない(この娘の性格では誇張などするはずもないが)。以前九重楼で敵として闘ったときも、腕前はたいしたものだと思っていたが、たった九ヶ月の間にその技はさらに練り上げられていた。とにかく身のこなしが軽く、少しでも隙を見せるとすぐに間合いをつめられる。力はさすがに幾分弱いのだが、それでも大きく重い薙刀を振るときに加わる重圧のおかげで、一撃一撃はかなり重かった。蔵にある数々の武器の中から、あえてこの大物を選び出したのもそういう理由があるからなのであろう。
(いま朱の首輪をつけていたら、おそらく一瞬で斬られるな…)
 つい愉快になって、黒蝿は口元に笑みをうかべる。
 受け止めた薙刀の柄のほうへと素早く錫杖をすべらせ、そのまま相手のみぞおちを狙うが、その前に比鼓能はするりと身体を翻らせた。その勢いに任せて薙刀を背後で一転させ、反対側から巧みに攻撃を繰り出す。それを黒蝿がまた止める。
 ふっと、比鼓能の顔にも笑みが閃いた。
 ――――ああ、愉しんでいるのか。
 儚くもろく見えても、この娘にも闘いの性が息づいているのだ。鬼を討つためだけに脈々と受け継がれてきた血が流れているのだ。
 戦う事に疑念を抱きながら、それでも戦いから逃れられない。それを愚かだとは言えないだろう。そう仕向けたのは自分と同じ神々なのだから。
 使命のためではなく、自分自身がどう生きたいのか――――
 昨夜黒蝿は比鼓能に問うたが、結局は比鼓能も戦いぬく未来を選択することだろう。そうやって、いつまでこの戦いが続いていくのか、神である黒蝿自身にも予想はつかなかった。
(俺では、その首輪から解放してやることはできん)
 そう思ってしまってから、黒蝿は密かに舌打ちした。関わり合いなどごめんだとあれほど思っていたのに、いつの間にかこういう事になってしまうのだ。自分の性分がつくづく嫌になる。ここのところの不機嫌の“おおもと”はこれなのだ。関わらなければ知らぬふりもできようが、一度天界に戻ってしまえば、結局は交神などという上の意向に逆らえず、気付けば自分もすっかり天界のもくろみに加担する結果になってしまっている。
 ―――ガキンッ!
 力に任せて振るった錫杖が、比鼓能の薙刀を強くはじいた。たまらずよろけた比鼓能の喉もとにぴたりと錫杖の先をつきつけ、黒蝿は低く言った。
―――勝負ありだ。今日はここまでだな」
 比鼓能はゆっくりとえものを下ろし、大きく息をついた。
―――お見事です。有り難うございました…」
 そういい終わったとたんに、比鼓能は肩で息をしはじめた。額の汗をぬぐうと、すがすがしそうに言う。
「やはり、神様はお強いんですね。私、かなり本気だったんですけど…」
「ふ…―――そうか。お前もなかなかだったぞ。見違えるほど腕が上がった」
 それを聞くと、比鼓能はくったくなく笑った。そして、ふいに真顔に戻ると、黒蝿を見て口を開いた。
「黒蝿様、昨夜の問い……まだ答えは見つかっていません。これからも見つけられるかどうか、実のところわかりません…私は戦うために生まれ、戦う事しか知らないのですもの。大切な人たちを亡くす事だけが不安で、それを防ぐ方法も朱点に勝つこと―――戦うことだと思っていました。その目的が急に掻き消えて、どうしたら良いか少しも分からない。……でも一つだけはっきりしていることがあるんです」
「……ほう、それは?」
「ここで、このままあきらめるわけにはいかないということです。たとえ、一族の呪いが消える日が来るのか分からなくても、私達が黄川人を討つためだけに作りだされたものなのだとしても……このままただ滅んでゆくだけなんて、我慢なりません」
 そう言った比鼓能の深紅の瞳に、一瞬強い光がよぎった。それが、一見穏やかそうに見えるこの娘の本性なのだろう、と黒蝿は思う。
「…ですから黒蝿様」
 ―――そして、そういう本性を持つ娘は、
「私に、子をお授けください…」
 ―――戦いを棄てる事など、結局はできないのだ。
 やはり、加担するはめになってしまうか。
「天界の全てを無条件に信じることは、私にはもうできません。けれども自分の一族ならば、信じることができると思うのです。先祖や母が、私達を信じてくれたように……いつかきっと、私達が成せなかった事を成してくれると…」
 ふと、比鼓能は困ったような笑みを浮かべた。
「そちら側に拒否権が無いのは、申し訳ないことなのですが……」
 そこで言葉をとぎらせ、比鼓能は深々と頭を下げた。さらりと浅葱色の髪がこぼれる。
“どうかお願いいたします”と、か細い声が聞こえた。そのまま顔を上げないので、黒蝿はいぶかって声をかけた。
「おい―――比鼓能?」
―――うふふっ」
 突然下をむいたままだった比鼓能が笑い出した。
「な、なんだいきなり……」
「今、初めて名前を呼んで下さいましたね」
 そう言って勢い良く顔をあげた娘の表情には、うって変わって先ほどまでの真剣さは無くなっていた。飄々とした微笑を浮かべて、比鼓能は黒蝿を見上げている。
「……そうだったか?」
 あっけにとられる黒蝿を見てうなずくと、比鼓能は明るく言った。
「ええ、―――ちょっと嬉しかったから、今日はこれで満足です」
「は……?」
「時間はあるんですもの、せっかくだから私もゆっくり黒蝿様のことを知りたいわ。…どうぞよろしくお願いしますね」
(案外、気楽な奴なのかも知れん……)
 呆れて娘を見ていると、後ろの方で「ひやぁ〜」と妙な声がした。振り返ると、桜の大木の根元に、地面から起き上がったばかりという姿勢の小鳥がいる。
「まぁ小鳥ちゃん!どうしたの?」
「……小鳥、お前いつからそこにいたんだ?」
 訊ねると、小鳥は頭をふらふらさせながら、高い声で言った。
「あのね、ぎんぎんって音がするから、小鳥見に来たの…そしたら、比鼓さまと黒蝿さまがけんかしてて、どうしよう〜ってずっと見てたら小鳥、だんだん目がぐるぐる〜ってなってきて、それからずっとここでぱたんってなってたみたいなの…」 
―――あのな…」
 どうやら、二人の手合わせを見ているうちに目を回したものらしい。
 あまりの緊迫感のなさに思わず溜め息をつくと、隣でそれを見ていた比鼓能がまた、ふふ、と笑った。
 昨日よりもまた少し温かさを増した風が、さらさらと桜の小枝を鳴らして吹きすぎていった。




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