六、

 陽の照っている時間が僅かずつ、しかし確実に延びてゆき、木々の芽、草の芽はそれに応じるようにふくらみ、花をつけだした。門の外の果て無き草原も青さを深め、みずみずしい香気が風に乗ってとどき、鼻をくすぐる。
 比鼓能が黒蝿の宮に来てから、いつしか十日以上が過ぎていた。
 黒蝿と比鼓能が最初に手合わせをして以来、それはすっかり二人の日課となってしまっていた。朝起きだすと比鼓能はまず薙刀をとって身体を慣らし、そうしているうちに黒蝿がやってきて、二人で手加減無用に打ち合うのが常である。
 そのおかげで、比鼓能の腕はさらに熟達し、時折は黒蝿から一本獲れるほどになってしまった。
 昼間はそうして稽古をしたり、小鳥の相手をして遊んだり、広く深い森のような宮の庭でのんびりと散策を楽しみながら過ごす。これまで、戦うこと、おのれを鍛えること意外に時間を費やしたことがほとんど無かった比鼓能にとって、この何の辛苦も無い穏やかな時は夢のようだった。
 少し前の比鼓能であれば、後ろから追いたてられるような焦燥に駆られ、その感情を振り払うように寸暇を惜しんで鍛錬したはずだが、近頃ではそのような焦りを感じることはほとんどなくなっていた。
 焦りは、己が無意識に隠していた不安そのものであったのだと、今では比鼓能は悟っている。
 その正体を正視し、受け入れてしまえば、真っ直ぐ前だけを見ることができた。後ろから迫ってくるのは自らの落とした影法師だけなのだ。
 それを知ることができたのは、やはり黒蝿のおかげだと比鼓能は思う。
 比鼓能がどんなに心のうちを見せまいとしても、鋭い金色の双眸はたやすくそれを見抜いてしまう。自分を暴かれるのは比鼓能の苦手なことの最たるものだったが、そうして裸にされてしまうと、何故かすっと肩の荷は下り、素直になれるのだった。
 突き放したような言葉も、試すような目も、近頃はかすかに優しさを孕んでいるようにさえ見える。
 実際にそうなのか、感謝ゆえにそう感じるようになったのか、それとも何か別の感情によるものなのか、判然とはしなかったが、宮での日々も、黒蝿のそばにいることも、心地よいと感じることだけは事実だった。

「比鼓さまはどうして黒蝿さまのおうちにきたのー?」
 ある夜、小鳥にそう尋ねられた比鼓能は、一瞬答えに詰まってしまった。
 格子も御簾も下ろしてしまった比鼓能の居室の中は、二本の燈台の淡い橙色が照っているだけである。床には夜具が二人分並べてあり、その一方に腹這いにねそべった小鳥が、嬉しそうに足をぱたぱたさせていた。いつの間にやら、小鳥は夜になると比鼓能の部屋に遊びに来て、そのまま二人で眠ってしまう習慣ができてしまった。
 一人で寝るのが寂しい、という小さな子供らしい小鳥の言葉を聞き、それなら部屋においでと言ったのが始まりなのだが、そうなると本来の目的が遂げられない事に、後になってから気づいた比鼓能であった。
(べつに急ぐ気もないし、いいのだけれど…)
 『どうして』と、幼い子にまっすぐに聞かれると、どう答えたらいいものか。
 仕方がないのでそのままを口にした。
「わたしは“交神”をするためにきたのよ」
「ふぅん」
 そのまま小鳥がごろごろと転がって遊び始めたのでほっとしたが、比鼓能がさて自分も床に入ろうとした頃になって、小鳥は首をかしげた。
「“こうしん”て何ー?」
「……ええ…と……」
 比鼓能は心の中でおおいに動揺した結果、こう口にした。
「お嫁さんになる…ようなものなのかしら……」
 言ってしまってから、自分の言葉にぎょっとしたが、小鳥は比鼓能の様子には当然気付かず、ぱっと嬉しそうに目を輝かせた。
「ほんと―?お嫁さんになりに来たのー!?じゃあ、じゃあ、ずぅっと一緒にいられるの!?このおうちにずっといられる!?」
「え…?ええっと、まだ黒蝿様がお嫁さんにしてくれるって決まったわけじゃないから…」
 しどろもどろになりながら答えると、小鳥は残念そうに眉をハの字にした。
「なぁんだー…。あのね、小鳥のお母ちゃんは言ってたんだよー。お母ちゃんはお父ちゃんのお嫁さんだから、ずっとそばに一緒にいるんだって。そういうもんだって言ってたのー!」
 小鳥はにこにことそう言った。比鼓能はふと小鳥を見つめて問いかけた。
「小鳥ちゃん…お父さんとお母さんがいるの?」
「いるよ!でもここにはいないのー。黒蝿さまのおうちに来たのは、小鳥だけだった」
 小鳥はほうっておくと、いつまでもしゃべりつづける。この時も、比鼓能は黙って聞いていたので、小鳥はとめどなく話し始めた。
「小鳥はねー、京の外れの竹やぶの中にほんとのおうちがあってね、お父ちゃんとお母ちゃんと棲んでたの。でもね、京には鬼が出るでしょお?鬼は小鳥達をいじめるのもいてね、その鬼が夜中におうちに火をつけてね、それで小鳥のおうちはね…きっと燃えちゃったんだと思うの」
「………!」
「小鳥はお父ちゃんとお母ちゃんと一緒に眠ってたんだけどね、煙が苦くって、熱くって逃げられなくなっちゃってね、よくわかんなくなっちゃって、それでね、気が付いたら、小鳥は一人ぼっちで黒蝿さまのお庭にいたの。黒蝿さまは小鳥を見つけた時、小鳥は間違って、迷子になってここに来ちゃったんだってゆったけど、小鳥はなんで迷子になったのかよくわかんなかったから、お父ちゃんとお母ちゃんはどこって聞いたの。黒蝿さまはね、お父ちゃんとお母ちゃんは、ここじゃない、うんと遠くの、何にもない所へ行ったんだろうって、小鳥もほんとはそこへ行かなくっちゃいけないんだって言うの。でもね、小鳥はお父ちゃんやお母ちゃんに会いたかったけど、何にもない所へ行くのはちょっとつまらないなって思ったの。何にもなくっちゃ、遊べないでしょー?だから小鳥は、もうちょっと遊んでからそこへ行きたいってゆったの。黒蝿さまは、じゃあ好きなだけここで遊んでいけって。それでお父ちゃんたちに会いたくなったら会いに行けってゆって、小鳥をこういう格好にしてくれたの。だからね、だからね、小鳥はここにいるんだよ!」
「そう……。そうだったの―――
 比鼓能は、胸苦しい思いで小鳥を見つめた。
 神人でも、風の眷属でもない小鳥の正体は、黒蝿の庭に迷い込んだ小さな魂だったのか。しかもそれが、鬼どもの無情な戯れによるものだったとは。
 それを、無邪気に語る小鳥が哀れで、比鼓能は思わず小鳥を抱きしめた。
「……ごめんなさいね……」
「えー?なんでなのー?」
 小鳥は比鼓能の胸で不思議そうに首をかしげた。
 比鼓能も、自分が小鳥に誤るのが的外れであることは分かっていたが、なんとなくそう言わずにはおれなかった。
 そうしてしばらく抱いてやっているうちに、小鳥は眠気がさし始めたのかおとなしくなってしまった。
「さぁもう寝ましょうか」
「うんー…」
 答えて、小鳥は自分の夜具に丸まったが、ふと顔をこちらに向けてにこにこした。
「黒蝿さまも一緒に寝ればいいのにねー。…小鳥はね…、京のおうちにいたころはね、お父ちゃんとお母ちゃんと、こうやってくっついて寝てたから…」
 その言葉に、思わず自分達がそうして眠る姿を想像して吹き出しそうになりながら、比鼓能もすぐ隣に横になった。
「小鳥ちゃんは、ここに暮らしていて寂しいと思ったことがある…?」
 もう半分夢の中にある様子の小鳥に話しかけると、小鳥はゆっくりと首を横に振った。
「黒蝿さまがいるもん…。それに、黒蝿さまが比鼓さまをお嫁さんにするなら、ずっと一緒にいられるもん…。寂しくないの…。小鳥がお父ちゃんたちのいるとこに行くときがきても…比鼓さまがずっといるなら、黒蝿さまもさびしくないよね……」
 次第にまどろみかかった声がとぎれ、すうすうと小さな寝息が聞こえ始めた。比鼓能は身を起こし、そっと燈台の灯を消した。
 “ずっと”などありえない。弥生の終わりには比鼓能はここから去るのだから。
 そう、そしてまた、あの戦いの日々に戻る。自分に成せなかった事を、子供へとつないで、遠くない未来に自分は果てるのだ。
 ずっと以前から分かっていたことだったし、今はその覚悟もできていた。
――――ごめんなさいね…小鳥ちゃん…」
 迷い込んできた小さな魂を、黒蝿は何を思いながら自分の宮に留めたのだろうか。
 ―――自分もまた、迷い込んだ魂のようなものなのだろうか。



 *     *     *



 翌朝、あまり深く寝付けぬまま、比鼓能はいつもより早くに目を覚ました。
 そのせいか身体が重く感じられ、ため息をつく。
 寝しなに聞いた小鳥の話が、やはり少し胸にこたえているのだろうか。
 その小鳥は、まだ隣で丸くなって眠っている。起こさないよう注意を払いながら比鼓能は夜着を脱いで袴姿に着替えた。廊下に出ると、ちょうど夜が明けきったところで、東の空は暁色から薄い青へとすばやく移り変わろうとしていた。蔵から薙刀を持ち出し、もうすっかりなれた宮の庭を歩いていつもの鍛錬場所へたどり着いた比鼓能は、思わず息を呑んでその場に立ち尽くした。
 そこに立ち並んだ桜の大木たちが、申し合わせたようにいっせいに花を咲かせ始めていたからだった。
 まだほんの一分か二分ほどしか花開いてはいなかったが、重なり合った枝々に霜の結晶のように散りばめられた白は比鼓能の視線をからめとって放さなかった。
「あまり見入っていると魂をとられるぞ」
 揶揄を含んだ低い声が投げかけられ、比鼓能が振り返ると、黒蝿が朝日に目をすがめながら階(きざはし)を降りてくるところだった。
「まぁ、それはなかなか素敵かもしれませんね」
 比鼓能は笑いながら肩をすくめてそう答えてみせた。
「…今日は早いな」
「黒蝿様こそ……お休みになられなかったのですか?」
「寝ても寝なくても同じなんだ俺は」
 いつもどおり不機嫌に応じた黒蝿が、ふと比鼓能の顔を見つめた。
―――顔色が優れんな。今日は止めておくか?」
「あ、いいえ…。ふふ、困ったことに私は寝不足がこたえるんです。身体を動かせばすぐもとに戻りますから。よろしくお願いします」
 いつもどおりに手合わせが始まった。
 だが、始めてどれほどもたたぬうちに、比鼓能は違和感を覚えていた。常ならば、身体を動かせば動かすほど軽くなる薙刀の感触が、今日に限っていつまでたっても手になじまない。
(そういえば、今日はまだ身体を慣らしていなかったんだっけ…)
 寝不足のうえに準備不足では、確かにきついかもしれない、と一人納得し、比鼓能は体勢を立て直しにかかろうとした。しかし、今ひとつ動きが切れない状態で、決着はすぐについてしまった。
 ガラン、と鈍い音を響かせ、弾き飛ばされた薙刀が地面に落ちた。
 これには当の比鼓能ですら驚いた。初陣を踏んでからはただの一度も、戦闘の最中に武器を取り落としたことは無かったのである。
―――やはり今日はおかしいぞ。よほどひどい寝不足か?」
「え…ええ…」
 自分でもわけがわからず首をかしげていると、パタパタと軽い足音と羽音がして、階から小鳥が降りてきた。以前は二人が喧嘩をしていると思っていたらしい小鳥だったが、近頃は手合わせを始めると面白そうにして見ているようになった。刃がぎらりと光る様や、二人の動きが珍しく、楽しいらしい。
 小鳥はこちらへやってきていつもどおり桜の根元に座ろうとしたが、ふと何かを思い立った様子で二人の傍に来ると、黒蝿を見上げた。
「なんだ、小鳥。怪我をしたくないなら向こうへ行っていろ」
 小鳥は黒蝿の言葉に目をしばたかせたが、それには従わず、いきなり口を開いた。
「黒蝿さまー、比鼓さまをお嫁さんにしてよー」
 比鼓能はぎょっとして小鳥を見た。小鳥は小首をかしげて、恐れ知らずににこにこしている。
――――なんだと?」
「あのね、比鼓さまをお嫁さんにすれば、ずっと一緒にいられるでしょー?きっと楽しいのー!」
 なおも言いつのる小鳥と、顔をしかめる黒蝿とを、比鼓能ははらはらしながら見守るしかなかった。昨夜小鳥に妙なことを言ってしまったのを密かに後悔したが、あとのまつりである。子供の前で不用意なことは言うまいと心の中で思うよりほかない。
「おまえな…本気で言っているのか?」
 黒蝿が呆れたようにそう言うと、小鳥はいつになく真剣な顔で頷いた。
「うん!そうすれば小鳥も黒蝿さまもさびしくないよ!ねーねー黒蝿さまー」
「阿呆、たわけたことを言うな」
「なんでー?だめなのぉ?そうなったらいいのにー。比鼓さまは強いよ、強くてきれいだよ、きれいでやさしいよ!お嫁さんにしなよー」
「少し黙ってろ小鳥」
 二人のやり取りを聞いているうちに、そういう場合ではないと思いつつも可笑しくなってしまい、比鼓能は下を向いて笑いをこらえるのに必死になってしまった。
「なんでー?小鳥は比鼓さまと一緒にいたいのにー。黒蝿さまだって、比鼓さまのこと好きでしょー?」
 その一言に、思わず比鼓能は黒蝿のほうを見てしまった。黒蝿は、一瞬あっけにとられたようだったが、すぐにいつもどおりの不機嫌な表情に戻り、いきなりパチンと指を鳴らした。そのとたん―――
「きゃーあ。」
 間の抜けた声をあげ、小鳥は姿を消した。いや、正確には―――
『チュン、チュンチュン』
 小鳥が今まで立っていた地面には、少女の代りにほの白い光をまとった一羽の小さな雀が、チョコチョコと落ち着きなく歩き回っていたのだった。
「まったく…、おしゃべり雀がぺらぺらと……しばらく外へ行ってこい!」 
 黒蝿が手で追いやると雀はすねたように小首をかしげ、それからパタパタと飛び上がって比鼓能の肩に止まった。
 比鼓能はとうとうこらえきれずに吹き出してしまった。
「怒られちゃったわねぇ。素敵な事を言ってくれてありがとうね小鳥ちゃん。気にしないで少し外で遊んできたら良いわ」
 そう言って指を差し出すと、小鳥はやさしくその指をつつき、次の瞬間には空の高い所へと飛び去って行った。
「…何が“素敵”だ。あいつに人の形を与えたのは間違いだったな……始終余計なことばかりしゃべくられては五月蝿くてかなわん」
「うふふ…可愛かったですね」
「可愛いものか。頭痛の種だ」
「あら、私は黒蝿さまの事を言ったんですよ」
「…なんだと?」
 顔をしかめる黒蝿の様子を見てまた少し笑うと、比鼓能はその傍へ近づく。なんとなくそうせずにはいられなくなって口を開いた。
「私の事…、いくらかは好いていただけてるんでしょうか」
―――さっきの小鳥の話を真に受けたのか?」
「……そうだったら良いのに、と思うだけです。私が黒蝿様の事を好いているから―――
 するりと口にしてしまってから、その響きの心地よさに気付いて、比鼓能は静かに納得した。
(そうだったら良いのに)
 義務感や、一族のさだめのためでなく、本当に心通わせて触れ合うことができるなら、きっと素晴らしいのに。
 少なくとも自分はそう思っている。いつの間にかそう思うようになっていたのだ。それが単純に嬉しく、誇らしかった。
 ―――だが、その幸福な気分は、突然不穏な胸の痛みにやぶられた。
 
 黒蝿は、いきなり予想外のことを口にした娘を密かに困惑しながら見ていたが、娘の表情がふいに凍りつき、白い手が何かを抑えるように口元にあてがわれたのを見て異常を察した。
 細い指の隙間から、深紅の糸が滑り落ちたかのように見えた。
 そのまま前のめりに倒れかかった比鼓能を抱きとめ、しっかりと支える。
 比鼓能は唇からあふれる血を必死に抑えながらも、黒蝿の腕の中から逃れようとして身をよじった。
「なんだというのだ。大人しくしていろ!」
 苛立ってそう言いつけると、娘は弱々しくかぶりをふって、不規則な息の下から言った。
―――だめ……、お召し物が、…血で穢れます…」
「莫迦め、殴られたいのか!」
 怒鳴りつけると、比鼓能の抵抗は素直に止んだ。
 だが、かわりに苦しそうに咳き込み始める。血液が喉に詰まるのだろう。
 黒蝿は片手を比鼓能の胸の前にかざした。不快な気配が、その手に絡み付いて押しとどめてくる。
 その気配を、彼は以前にも感じたことがあった。
 そう、自分を封じ込めていた、あの力に酷似している―――
 娘の額に目をやると、そこには呪いの印である翡翠色の石が禍々しく光っていた。
 原因を悟った黒蝿は、手のひらでその石を覆い隠した。石はかすかに抵抗するような気を発したが、黒蝿が低く呪を唱えると大人しく静まった。同時に比鼓能の呼吸も安らぐ。
―――少し休め」
 そう言って額を抑えていた掌を瞼の上におろすと、娘は安心したような吐息を漏らし、気を失ってしまった。
 その身体を抱き上げて屋敷へと運びながら、黒蝿は考える。
 これが竜川を蝕む呪いであることは間違いない。
 
 ――――だが、あまりにも早すぎはしないか。




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