七、

『今日も疲れただろう、ゆっくりおやすみ』

 懐かしい声を聞いたような気がした。
 次いで額にのせられる、滑らかで、少しひんやりとした手のひら。
 
 ―――ああ、このては、かあさまのてのひらだ。
 母様、母様、日ごとに母様の手のひらが冷たくなってゆきます。
 いつまでご一緒に鍛錬ができるのでしょう。
 どうしたら母様を助けてあげられるでしょう。
 どうか、いつまでもお側に居てください。
 比鼓能は強くなりますから。
 一日も早く、大きくなりますから。
 どうか、待っていて。
 側に居て。
 お願い。
 お願い、お願い、お願いよ――――



「…かあ…さま…」
―――何だ。俺が母に見えたか?女になった覚えは無いが」
 傍らから聞こえた低い声に、比鼓能ははっきりと我に返った。声のした方に目をやると、黒蝿がいつもどおりの不機嫌な表情で自分を覗き込んでいる。その後ろに立てられている唐棣(はねず)色の几帳を見て、ここが自分の居室であることを知った。気を失っている間に黒蝿が自分を運び、床に横たえてくれたものらしい。
「気分はどうだ」
 そう問われて、比鼓能は自分が血を吐いた事を思い出した。
 せり上がってくる苦い鉄の味、内腑と心の臓を一編に絞り上げられるような言いようのない痛みと苦しさ。
 まだ口の中にかすかに残る血の匂いとともにありありと思い出せるが、不思議なことに今はまったくそれらを感じなかった。ゆっくりと肘をついて身を起こしたが、やはり、身体は嘘のように何事もない。
「起きて平気なのか」
 問いかけられて、比鼓能はうなずく。夢でも見ていたかのようだ。
「黒蝿様が、何か手をほどこして下さったのでしょうか」
―――いや。一時的に鎮めてやりはしたが、回復の処置をしてはいない。というよりも、俺では回復させてはやれない類のものだと思う。今なんとも無いのなら、そういう発作なのだろうな」
―――発作……」
 ぼんやりとその言葉をなぞると、最初に浮かんだのは、母の顔だった。幼かった比鼓能の目の前で、日に日に弱っていった、母の顔。
「お前の一族に朱点がかけた呪いの一部、としか言いようがないのだが…少し早すぎるようではある。―――偶然なのだろうが、おまえの持つ強すぎる神の力が朱点の呪いに拍車をかけているのだ」
「私の持つ…神の力?」
 比鼓能が首をかしげると、黒蝿は思案するようにうつむき、それから口を開いた。
「お前達にかけられた短命の呪いはな、神と人とのあいのこであることを利用して発動するのだ。お前達は、幼い頃には著しく体力が向上し、歳を取るにつれ術力のほうを強めるようになる。術力は神の世の力だ。歳を取って術力のみを強めるようになれば、やがて身体は神の力を包含しきれなくなって自壊する。その身体の崩壊を早く招くために、お前達の成長は早められているのだ」
 初めて聞く話に、比鼓能は呆然とした。
 ―――そうなのか。
 黄川人の呪いが直接自分たちを殺すのではない、とは。それどころか―――
「竜川の者は、自分の親から受け継いだ力に食い殺されるということですか」
 うつむき加減だった黒蝿の顔がゆっくりとこちらを見る。その目がゆっくりと細められる。
「……そうだ。そして、これは前から思っていたことだが、お前の持つ術力はその身で支えるには大きすぎるのだ。神から受け継いだ力と、人から受け継いだ力…その均整によっては、まれにそういう子供が生まれることもあるという話だ。―――その力を、支える限界が近づいてきているんだろう。今はたいした影響はないかもしれんが、その兆候が現れたことに変わりはない。……恐らくは、死期も一族の他の者より早くおとずれる」
「………そうですか………」
 死を宣告されたというのに、比鼓能の口から出たのは凪いだ湖面のように淡々とした声だった。
 黒蝿から目を逸らし、ゆっくりと、深く息を吐いた。意識しないと呼吸することを忘れそうだ。
 それから、ふとあることに思い至って顔を上げる。静かに、静かに言葉を紡いだ。
「これから先も、一族が神々と交わってゆけば、力はますます強くなります。それは、一族の命をさらに縮めることになるのですね……」
 黒蝿はこれには答えなかった。だが、その沈黙が肯定を表していることは明らかだった。
(なんてことだろう)
 比鼓能がそれ以上何も言わずにいると、黒蝿が立ち上がる気配がし、低く響く声が上から注がれた。
―――余計なことを言ってすまなかったな。お前にはどうすることもできぬものを」
 こんな風に謝られたことはなかったので、比鼓能は驚いて黒蝿のほうを見た。すでに部屋から出て行こうとしている後姿に、考えるよりも先に言葉が口を突いて出た。
「黒蝿様。今夜おいで下さい」
 立ち止まってこちらを見た黒蝿は、虚を衝かれたような顔をしていた。
 ―――自分はどういう顔をしているだろう。
 あのような話をされたすぐ後に、自分は何を言っているのだろう。
 心の中は様々な感情が渦を巻いていたが、その目まぐるしさの中心は台風の目のように静かで、無音だった。
(なんてことだろう)
「小鳥ちゃんには、今日は一人で寝てもらうことにしましょう。…お待ちして、おりますから…」
「……さっき倒れたばかりだぞ。大丈夫なのか」
 その言葉に、自然に唇の端が持ち上がる。
(ああ、わたしは笑っている)
「ええ、今はけろりと治ってしまっていますもの。ご心配には及びません。ですから」
(ほんとうに、なんて―――
「私に子をお授け下さい。…これから先を、生きる力を―――
(なんて罪深い)
 こんな呪いを与えた罪。
 死を早める生を与え続ける罪。
 笑ってそれを求める罪。
 ―――それでも、ここであきらめるわけにはいかないから。
 笑顔の下で、比鼓能は先ほどとは別の胸の痛みに苛まれていた。
 血を吐くよりもずっとにがい。

(心通わせて触れ合えたなら、本当にそれだけだったなら、きっと素晴らしいのに)



 ひやりと湿気を帯びた濡れ縁を渡りながら、黒蝿は舌打ちした。
 空は彼の機嫌に同調するかのように薄暗くなり、鈍色の雲が低く垂れ込め始めている。
 話すべきではなかったかも知れぬ、と心の中で一人ごちる。
 まったく、天界に戻ってからというもの、後悔ばかりで気が滅入る。
 自分には関わりの無いことだと思っていた。泥試合をやりたい奴らは勝手にすれば良い。それで天が落ちようが地が裂けようが、何も惜しくは無かった。
 だがそれも、傍観している間だけのこと。
 引きずりこまれて、気づけば自分も決着の見えない盤上に立っていた。
 比鼓能が何を思ってあの状況で自分を招く気になったのか、黒蝿には分からない。
 だがどちらにしても、戦いの生を選び取ったことだけは事実だった。
 あの目は、絶望して自暴自棄になった者の目ではなかった。全てを知った上で、それでも命を繋いでゆく覚悟をした目だった。そして、死を静かに受け入れた目。
 初めて宮に来た時には、それほど感情を表に出さない、とらえどころの無い娘だと思った。だが、その内面は、強い反面弱く、老成していながらも無垢で、薄氷を踏むがごとき危うさの中でかろうじて均整を保っていた。
 その均整を保つのは、姿に似合わぬ気丈さ。近頃では、その複雑さが面白いと気に入り始めてもいた。
 幾星霜も神の世に在って凍て付いていた黒蝿の深層を、揺り動かす何かを比鼓能は持っている。だが、そうして心を動かすことに何の意味があるだろう。人間は儚いのだ。特に、あの娘の一族は。
 交わり、子を授けてもとの下界に降ろせば、あの娘もその子供も、あっという間に消えてなくなるだろう。
 ―――全てはいつか大願を成し遂げるための、いしずえの一つにすぎないのだ。
(ばかばかしい)
(そんなもののために、心をさくのか。この俺が)
 朱点を討つ為の駒。その駒をたたき上げる為の捨て駒が自分であるという事実は腹立たしく、不愉快だった。
 だが―――
 比鼓能は、駒であるということを知りつつも、生きる力が欲しいと言った。
 その言葉は黒蝿の胸に響いて、いつまでも消えない波紋を作った。



 *     *     *



 夕刻から降りだした雨のせいで、空気はしっとりと湿っていた。
 比鼓能は部屋の隅で柱にもたれ、ぼんやりと雨音を聴いていた。
 一度覚悟を決めてしまうと、荒れ狂う様々な思いはその決意に飲み込まれて、ひとつに固まってしまった。
 憎悪や、怒りや、悲しみや、迷い。それらは決して消えることは無いが、もう隠そうとは思わない。この醜くて弱い塊の全てが自分だ。それでも、嫌な気はしなかった。
 ただ、胸は相変わらず痛かった。
 せっかく気付いた綺麗な感情も、その醜い塊の中に取り込まれてしまうのかもしれないと思うと悲しかった。
(鬼を滅ぼすためだけに命を繋ぐんじゃない。義務感から子供を欲しがるんじゃない。今はもう、誰でも良いわけじゃないもの)
 それでも、子を授かれば、その子は否応なしに荒んだ戦いの中へ巻き込まれてゆく。
 比鼓能にそのつもりが無くても、結果的にはそうなるのだ。しかも、これから戦いはさらに厳しくなっていく。自分にその責が負えるならば良いが、残りの命が短いのではそれすらままならない。
 どうにかして、黒蝿への気持ちを純粋で綺麗なまま遺しておきたいと思うのだが、暗い戦いはそれらすべてを飲み込んで押しつぶしてしまいそうだった。
(母様は、どんな気持ちだったのだろう。聞いてみたかったわ……)
 
 比鼓能の母、巻(まき)が逝ったのも、今夜のような雨の夜だった。
 母と過ごせたのは、竜川の家に来てから、奥義を継承するための訓練を行ったふた月の間だけであった。母はそれこそ鬼のように厳しく、そのふた月の間の記憶と言えば、死に物狂いで母に向かっているところばかりである。下手をすれば初陣を飾る前に死んでいたかもしれないような激しい修行の日々。それを歯を食いしばって耐えていた自分。今思えば何故そこまで必死に母に向かっていくことができたのか不思議なほどだ。
(母様がもうすぐいなくなってしまうということを、感じ取っていたせいなのかしら)
 巻は隠し続けていたが、比鼓能には母が無理をおして稽古をつけていることも、影で血を吐いていることも分かっていた。
 一日を終えて比鼓能が眠る時、必ず側で頭を撫でてくれた手は、貧血のために日に日に冷たくなってゆき、それを感じるたびに、胸の奥のほうが焦りと不安にざらつき悲鳴を上げたくなった。
 そして、すべての奥義継承が済んだ途端、巻は倒れ、そのまま死の床についた。
 最後の日、母は比鼓能をその胸に抱き、消え入りそうな声で言ったのだった。
『お前が生まれてくれて良かった…。あたしが今ここで死んでも、あたしの宝物はここにたくましく咲いてるんだから…。そして、お前の生きた証しは、お前の子供が継いでくれるんだから…。ご免ね、比鼓能…あたしにできたのは、お前という子をこの世に存在させた事だけ。…なんにもしてあげられなくて…ご免ね……』
 比鼓能はそんな母に、精一杯笑んでみせたのだった。
 厳しさは母なりに精一杯の自分への愛情だと分かっていた。それを伝えたかったのだ。
 ―――その後すぐに母が儚くなっても、比鼓能は涙を流さなかった。
 “泣く暇があるなら一匹でも多く鬼を切れ”と言った母の言葉どおりに――――

 雨の音が耳にまとわりつく。こんな日は母のことを思い出す。
 まだ一年も経っていない記憶は、一度思い出すとどうしようもなく鮮やかに瞼を焼く。
 ふいに涙が零れた。
「あら、いやだ…最近どうも涙腺が緩んでるみたいね…」
 苦笑して手のひらで拭ったが、それはあとからあとからあふれてくる。
 心細さが込上げて、どうしようもなく切なかった。
―――どうした。何を泣いている」
「えっ…」
 ふいに声を掛けられ、驚いて顔を上げると、いつの間にか黒蝿が御簾をくぐっていた。
「まぁ…気づきませんでした。修行が足りませんね私ったら……。ふふ、これは…雨につられたんです」
 慌てて涙を拭い、笑ってみせる。
 黒蝿は外を振り向き、一言“よく降るな…”とつぶやいた。それから静かに格子を下ろしたので、雨音は一気に遠い世界のものになった。
 なんとなくいたたまれない気持ちになり、比鼓能はうつむいて話を逸らした。
「小鳥ちゃん…帰って来はぐりましたねぇ…。どこかで泣いてないと良いんですけど…」
「ふん、あれでももとは野の鳥なんだ。適当に宿を見つけて寝てるだろうさ」
「なら…いいのですけど…」
 そう応じたところで、俯いた視界に黒蝿の衣の裾が入り込んだ。
 再び顔を上げた時には、黒蝿の姿はすぐ目の前だった。
 黒蝿は手を伸ばすと、比鼓能の涙の後をなぞって言った。
「お前のような女が、何に涙を流す?何を思って泣くのだ。言ってみろ…」
 思いがけず優しいその声に、比鼓能は肩を震わせた。目の前がみるみるうちにぼやけたが、相手の金色の双眸に魅入られながら口を開く。
「自分の想いが…闘いの中に沈んで、見えなくなるのが不安です…。大事なものなのに、それが確かにあったという証拠が消えてしまいそうで怖い…。こんな弱い自分が嫌いです。覚悟を決めた先からもう揺れるなんて……ああ、どうしたらいいの…」
「………」
「子供が欲しいと思いました…。わたしの分まで生きて欲しい。幸せになって欲しい。…でもその子に、何をしてやれるでしょう?母様や、先に逝った皆のように、立派にはきっといかない……だってわたしはこんな、……!!」
 その時、ふいに黒蝿の唇が比鼓能のそれに重なった。
 比鼓能が驚いて目を見はると、黒蝿はそっと唇を離して言った。
「何かをしてやろうなどと思わんで良いのだ。立派になる必要がどこにある。ただそこに在るだけで、命は尊く美しいのだ。少し道を示してやれば、あとは勝手に花開く。幸せになるかどうかは全てその命次第だ」
 その言葉に、比鼓能は子供のような表情をした。真紅の瞳から透明な雫がいくつもいくつも転がり落ちていく。
「…そうで…しょうか…」
「信じないならそれでも一向に構わんがな。―――それから…想いが消えそうで怖いというなら、俺に話しておくというのはどうだ。…このとおり、寿命などというものとは無縁の身だ。一つぐらいなら覚えていてやっても良い」
 比鼓能は珍しいものでも見るようにまじまじと黒蝿を見、それからゆっくりと息を吐いた。
―――それならば、もう言いました……貴方が、好きだと……」
―――そうか。…覚えておこう」
 ゆっくりと黒衣の腕が伸びて、比鼓能は黒蝿の胸に引き寄せられた。
 泣いて気が高ぶっているのと、信じがたい状況とにしばらく声も出せなかったが、心細さと胸の痛みが少しずつ解けていくのを感じて、比鼓能は安堵していた。
「有難うございます―――同情でも嬉しい……」
 そうつぶやいた比鼓能の頬に手をかけて、黒蝿はため息をついた。
「そんな無駄な情は俺には無いぞ…ばかばかしい」
「まぁ―――それならば、もっと嬉しいわ……」
 まだ涙を零しながら、それでも比鼓能は本当に幸せそうに笑った。
 その顔を黒蝿が仰向かせる。
 静かな部屋の中は、微かな衣擦れの音と、包み込むような淡い雨の音だけになった。




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