八、

 晴れ渡った天は、白雲のように咲き乱れる花に半ば覆い尽くされていた。
 雨に洗われ、その後陽の光と温かな春風に慈しまれた桜は、今がもっとも美しい盛りである。
 その下に立ち、花雲の天蓋を見上げた女は、紅の瞳に全てを焼き付けようとしているかのごとく身じろぎ一つしなかった。
 女―――比鼓能が、この桜の影落ちる庭を後にする日がやってきたのだった。

「ええー、比鼓さまかえっちゃうのぉ?やだっ、やだぁーっ」
 今朝早く、比鼓能が黒蝿の宮を去ることを告げると、小鳥はめずらしくだだをこねた。
 大雨で宮に帰りそこなった晩以来、夜中に比鼓能の居室で眠ることができなくなってしまっていたので、余計に機嫌が悪いのである。
「比鼓さま、このおうちいやになっちゃったのー?黒蝿さまがお嫁さんにしてくれないからなのー?」
 黒目がちの大きな瞳を涙でいっぱいにした小鳥に見上げられると、比鼓能の心も痛む。
「ご免なさいね小鳥ちゃん。ここが嫌だなんてとんでもないわ。ここも、小鳥ちゃんも、黒蝿様も大好きよ。でも、わたしはまだ京でやらなくてはいけないことがあるの。できるだけたくさんのことを、今のうちに京でしておきたいのよ。小鳥ちゃんが、お父さんやお母さんのところへまだ行きたくないのと少し似ているのかもしれないわね」
 頭をなでてやりながらそう言うと、小鳥はじっと比鼓能を見て、首を傾げた。
「比鼓さま、京で遊ぶの?京は悪い鬼がいっぱいいるのに?危ないよぉ」
 比鼓能はその言葉に、いたずらっぽい笑みで応えた。
「大丈夫。わたしは強いから、鬼なんかに負けたりしないのよ」
 一瞬ぽかんとした小鳥は、つられるように笑顔になり、比鼓能に抱きつく。
「そうだよねー!比鼓さまは強いもん!黒蝿さまに勝っちゃうくらい強いもんね!鬼なんかこわくないのー!」
「ふふふ、そうよ!」

 ―――鬼など怖いものか。
 白い花弁を映していた瞳が、ゆっくりと閉じられる。
 比鼓能は閉じた目蓋の裏で、これからのことを考える。
 朱点童子の真の姿を知って以来、閉ざされていた行く末への思考が、今は目まぐるしく動き出していた。
 自分の命は、もうそれほど長くはない。だが、今すぐ尽きるというわけでもない。なんとなくだが、比鼓能にはそれが見通せるような気がした。―――まだ、大丈夫だ。
 それならばできるだけのことをしておきたい。命の続く限りはあがいてみたいと思う。
 大切なものが有り、愛しいものが在り、その想いは遺せる。
 ならば、その大切なもの、愛しいもののために自分の全てを使おう。絶望している暇も、恐怖を覚えている暇もありはしない。
―――別れは済んだか?」
 聞き慣れた低い声が尋ねる。比鼓能は目を開ける。
「はい」
 振り向いた先には、傍らにべそをかいた小鳥を引き連れた、長身痩躯の男神の姿があった。
「黒蝿様、本当に有難うございました。小鳥ちゃんも、いろいろと良くしてくれて有難う」
「ひっ、比鼓さまぁ。…京に帰っても、小鳥のこと忘れないでね、京で遊び終わったら、きっとここにお嫁に来てね。きっとなのー」
「いつまで泣いているんだ阿呆。―――それに、嫁にならばもうしたぞ」
「ふぇ…?そうなのー?」
 黒蝿の言葉に頬が熱くなるのを感じて、比鼓能は思わずもう一度桜の大木を振り仰いだ。見たいと思っていた、咲き誇る無数の花々。その花の散る様は、それは美しいのだという。
 かすかにそよいだ風に一片だけ落ちてきた花びらを見て、比鼓能はそれが無数に散る様を脳裏に思い描く。
 もうそれで、充分だと思った。
「では、そろそろ始めるぞ。俺はもう下界まで送ってやることはできないが、来た時ほど危険ではないから安心するがいい」
―――はい」
 ―――これで、最後。そう思って黒蝿の顔を見たとたんに涙がこぼれそうになり、比鼓能は唇を引き結んだ。
 本当に、ここに来てからの自分はどうかしている。今までどうやって己の感情を御(ぎょ)していたのか思い出せなくなるほどに。
 必死で平静を保とうとしている比鼓能のそばへやってきて、黒蝿は溜息をついた。
「不安なら今のうちに泣いておけ。お前の性質(たち)では、下へ降りてからではそうはいくまいからな」
 そういって伸べられた手が頬に触れ、比鼓能の瞳からとうとう雫が落ちた。これほど近くに感じた手が、下界に戻った瞬間に夢の中の出来事にならぬという保障がどこにあろう。
―――覚えておいてやると、言っただろうが」
「……はい……。ああ、やっぱり、最後に見られた顔が無様な泣き顔なんて嫌だわ。…少し待って下さいね」
 比鼓能は下を向いて息を吐いた。そして、普段からは考えられぬほど苦労をして、やっと笑顔を浮かべた。
「お世話になりました。ここへ来て良かった。……相手が貴方で、良かった。――――お願いいたします」
 比鼓能の声に頷いて、黒蝿は低く呪を唱えた。ここへ来た時とは違う、ゆっくりと流れる清流のような気配が比鼓能を包む。
「比鼓さまぁ、元気でねー!」
 せいいっぱい手を振って、必死の様子で叫ぶ小鳥に、比鼓能もせいいっぱい応えてみせる。小鳥の声が、ほんの少しづつ小さくなり始める。
 ――――ああ、遠のいてゆく。
 もう一度、良く見ておかなければ。
 そう思って真っ直ぐに黒蝿の姿を見つめた時、相手の唇が動いた。

『比鼓能、これを全てお前にやろう。―――よく見ておけよ』
 ――――とたんに、視界が揺れた。



 薄紅の天蓋が、一瞬にして捲れあがったかのように見えた。
 暖かな風が、まるで地の底から突き上げてきたかのようにどお、と吹き通り、幾本も連なった桜の大木を揺るがしたのだった。
 最初にひとひら。
 続いて、幾垓(いくがい)、幾京(いくけい)もの淡紅の雪が、くるくると回りながら宙に舞った。
 辺りはほの白く輝くようで、花びらの嵐を受けながら、比鼓能はただその白さに圧倒され、息をすることすら忘れた。
(やはり、読まれているのかしら―――
 何故こんなにも全てにおいて、この方は自分の胸を打つのだろう。
 舞い散る白い光の中、黒く際立つ衣を見つめながら、比鼓能は既視感を覚えていた。
 ―――永らえたいと、思うなら。
 それは、幼い頃の記憶へとつながり、雨の夜の言葉へとつながり、再び目の前の白へと、勢いよく比鼓能を押し流した。そして。

―――見事に生きよ―――

 無数の花の舞を、残らず瞳に焼き付けようとする比鼓能の耳のすぐ傍を、忘れがたい声が風となって吹きすぎていった。



 ―――ええ。
 ええ、もちろん。
 たとえ短くとも。
 血塗られていようとも。
 次に実る美しい実のために。
 いつか咲くであろう、未だ見ぬ花のために。
 最後の一片までも。
 ―――――見事に。



 *     *     *



 白い花の嵐が徐々に途切れて、いつの間にか、懐かしい匂いと見慣れた光景が姿を現した。
 少々傷んだ柱。使い込まれた調度。そして、よく見知った―――いや、前に見たときよりも少しばかりたくましく成長した、顔、顔、顔。
 その中央に居た桃色の着物の女が、その場に正座し、深くこうべを垂れた。
「お帰りなさいませ、比鼓能様。お待ち申し上げておりました!」
 そこは、竜川家の祭壇の間であった。
 かすかな違和感と、大きな安堵。胸にしみるような温かさ。
 ―――戻ってきたのだ。
「…ただいま、イツ花、皆。竜川比鼓能、無事儀を終えて帰りました」
 笑みを浮かべて、一人一人の顔を見やると、皆ほっとしたように笑い返した。
「久しぶりだね、比鼓能。良い女になってきたじゃないか」
「比鼓能姉さん!」
「比鼓姉…!」
 久しぶりに見る一族たちは、やはりかけがえなく愛しく、比鼓能は心密かにこの先への決意を新たにした。
 一月前よりも格段に背が伸び、少女らしくなった銀牙が、興奮した面持ちで言った。
「びっくりしちゃった。姉様ったら、一緒に凄いものを連れてくるんだもん!」
「え…?」
「そうだよ、ほら見てごらん。そこらじゅう雪が積もったみたいだ」
 言われて辺りを見回すと、辺りは一面桜の花びらで埋め尽くされており、板の間はすっかり淡い薄紅に染まってしまっていた。
 それは確かにかの神が自分へと贈ってくれたものであり、先ほどまで目にしていた桜吹雪の庭や、小さな翼持つ童女や、全てを見透かすような金の目や、自分に触れた大きな手のひらなどを、鮮やかに呼び起こしてひどく心を揺さぶった。
 だが、その感情のすべては胸の中にしまわれたまま、比鼓能の静かな表情に上ってくることはなかった。
「比鼓能姉様の髪にも着物にもいっぱい付いてるよ。ねぇ、これはいったいどうしたの?」
 見上げて首をかしげた沙羅に、いたずらっぽく微笑んで、比鼓能は言った。
「うふふ……これはね、みんなへのお土産よ。―――わたしは春を運んできたの」
 目を丸くする一同の前で、比鼓能はもう一度、花が開くように美しい笑みを浮かべた。
「さぁ、次の討伐への準備を始めましょうか」
 つらく厳しい戦いの日々へ。


 ――――それでも、比鼓能に迷いは無かった。










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